2013年9月18日水曜日

人生の意義 生きる意味 生命と燃焼

「人生とは何か」「生きる意味は何か」という問いがある。
古今東西、いろいろな答え方がなされる。

宗教的な観点からの答、何やら悟ったような答、なかには禅問答のようにいくら読んでも意味のつかめない答えもあった。きっと書いている本人もわかってはいないのだろう。

結局、心底、納得させてくれる言葉はなかった。

今は、このような問い自体に、あまり意味はないと思うようになった。

「生きる」ということに対するとらえ方は、いくつもあるが、現象面から見るとその答は単純である。

酸素を吸い、二酸化炭素を出すこと。
その過程でエネルギーを生み出し、自分のクローンを作り出す。

それが「生きる」ということである。

2013年6月30日日曜日

チェロの音 ウォルフキラー

私の楽器は、1代目も2代目もウォルフ音がでる。

G線のFisで(厳密に言うとFとFisの間)で発生するが、楽器がよく鳴る時期は、D線でも出る。D線で発生すると演奏に支障が出る。
これを押さえるには、弦やテールピース、エンドピンを変えるという手段があるらしいが、あまり効果がない。手っ取り早いのは、例のウォルフキラーである。

今は、いろいろな形状のウォルフキラーがあるようだが、以前は、筒状のゴムを弦に装着し、それを真鍮でできたもので固定するものが一般的だった。

ウォルフキラーの欠点は、装着することによって楽器全体の鳴りもおさえられてしまうことにある。原理的には、F音あたりだけを押さえられるはずだという主張もあるのだが、これは実際弾いてみるとすぐにわかる。特にA線の艶やかさが失われる。

2013年6月26日水曜日

呼と吸  日本と欧米の違い


呼吸をするということは、生きるという意味と同じである。


欧米人は、人間は、神が泥をこね、最後に魂を吹き込んでつくったと考える。そのため人間は、生まれた瞬間に息を吸って、生命活動を始めることとなる。死ぬ時には、「最後の息を神に返した」という表現があるように、息を吐いて終わることになる。

欧米人にとっては、生まれた瞬間に、まず息を吸い、そして吐いて、吸って、吐いて、吸って・・・最後に息を吐いて、死んでいくのである。呼吸という言葉があるが、彼らにとっては正確に言うと「吸呼」が、1つのセットということになる。

2013年6月25日火曜日

アマオケ休団の記

あまりに体調がすぐれないので、一応、昨年の10月から今年の3月まで休団することにしたが、もうすぐ7月になってしまう。半年間と思ったのだが、9ヶ月たってしまった。昨年9月にその旨、メールを打ったら、休団処置というのは現在ないので、いきなり退団になってしまった。特に届を出す必要もなく、メール連絡でいいということ。このまま行かなければ、だれにも知られないまま消えていくこととなる。

何かを期待したわけでもないが、一応20年以上やってきたこととの終わりとしては、あっけないものである。

2013年6月20日木曜日

弦楽器と気候  ヨーロッパは乾燥している?


一般的に、ヨーロッパの気候は、乾燥しており、楽器も鳴りやすいが、日本へ持って帰ると湿気が多いので鳴らなくなると言われる。昔習った地理でも、地中海性気候とか西岸海洋性気候との違いはあるが、どちらも年間降水量は1000mmに満たず、確かにヨーロッパは雨が少なかった記憶がある。

一方、私の住む北陸は、楽器の環境としては最悪なんだろうなと漠然と思っていた。
「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるように、一年中湿度が大変高いのである。

ところが最近、「イタリアのクレモナは霧が出ることが多く湿度は高い」という一文を見つけた。そういえば、「モーツアルト」という映画があった(テレビ放送での日本語吹き替えが絶妙だった)が、その中のウィーンは雪が降っており、大変寒そうであった。雪が降るとすれば湿度は高いはずである。


結局、本当のところはどうなのであろう。
調べようとしたのだが、案外、都市ごとの月別の平均気温、降水量、湿度が記載されている資料がない。以下、あちこちからひっぱってきたものを載せておきます。


2013年6月19日水曜日

第二次世界大戦 太平洋戦線におけるアメリカの戦死者数

第二次世界大戦において日本は、圧倒的なアメリカの戦力の前に敗れ去ったという解釈が一般的である。結果的にその通りだったと思う。
あの戦争を検証しても、局地的には勝てる場面は考えられても、大局的にはどうやっても勝てない。犠牲者数も圧倒的に差がある。

しかし、言われているように「アメリカにとって、太平洋戦線は(ヨーロッパ戦線に比べ)、楽な戦い」だったのだろうかという疑問が生じ、アメリカの太平洋戦線での死傷者数を調べようとしたのだが、これがよくわからない。
幸いなことにネットを見ていたら同じ疑問をもった方がおられ、様々な検証の上、(1) のような数字をあげておられた。

世界の宗教 入門編  仏教 その1


開祖:ゴータマ・シッタルダ 釈迦族の王の息子

(1) 教義の概要

インドにはこの当時から(今もだが)、人間は死ねば、それで終わりではなく、生まれ変わるという考えがある。この場合、何に生まれ変わるのかは、生きていた時のおこないで決まるので、人間だった者が、悪いことをしていれば、次は犬になり、犬の時に悪いことをすれば、次は亀になり、亀で悪いことをすれば(亀の悪い行為とはなんだ?)、次は虫になるという具合である。良いことをすれば、次々と上にあがれるわけだが、人間で良いことをしていれば、次は例の「カースト」を次々とランクアップできることとなる。これを未来永劫繰り返すことを「輪廻転生」と呼ぶ。

※こういう考えが根底にあると、既存の社会制度を打ち壊し新たなものをたてるという態度が生まれにくい。生まれたカーストとしての仕事を全うすることが大切で、そのことを行えば、次は上級カーストに生まれると考え、行動することが自然になるからである。ここらへんのことがカースト制が戦後、廃止が宣言されても、現在もなくならない理由となっている。

2013年6月13日木曜日

人生90年として 30年は寝てるんだね

人生90年として、人間は何をしているのか計算してみた。
            
  睡眠    8 時間 とすると→ 30年
  仕事    10.5時間     → 40年
  通勤    0.5時間(30分)  → 1.8年
  食事   0.75時間(45分)  → 2.8年
  トイレ 0.25時間(15分)   → 342日
  洗面洗顔  0.05時間(3分) → 68日
  風呂 0.3時間(20分)     → 1.1年
  自由時間 3 時間      → 11年

となった。まあこれは、土日の過ごし方とか、定年後のことなどは考えていない、おおざっぱなものなのだが、それにしても人生のうち約30年は寝ているのですね。また90年のうち1年は風呂に入っているとは思わなかった。

人の一生は、寝て起きて、仕事をして、残りの時間は食事や歯磨き、トイレなど必要なことをやり、残った時間を自由に少し楽しむということですね。

日本の英語教育を考える 小学校英語教育の愚

基本的に、日本人は英語が話せない、もしくは苦手な民族だと言われている。実際、高校卒業までに、6年間の英語教育を受けてきたはずだが、たぶんその半分ぐらいは、外国人に話しかけられてもyesとnoしか言えないのではないかと思う。


そのため、英語教育にこだわりを持つ人は、早期教育を提唱する。その努力もあって、小学校5、6年に英語が取り入れられ、さらに4年生からという声も出ている。

しかし、日本人が英語ができない理由は、英語教育の問題ではない。そのため早期教育は日本においては効果は上がらないだろう。

日本人が英語が出来ない理由は、簡単に言うと

 「必要がないから」  である。

2013年6月12日水曜日

日本と欧米の子育て文化 褒めると叱る

2001年記述


文部省から家庭教育ノートという小冊子が出された。

その中の日本と外国の意識調査を見ると,自分の子供の成長に満足していると答えた親は,日本では約40%前後であるのに比べ,アメリカやイギリスの親は,約83%前後になっている。また子供に対しての質問では,自分は「正直な子」「親切な子」「よく働く子」と思う子供は,ミルウォーキーで約60%,オークランドで50%,北京で40%あるのに比べて,日本では約10%前後しかないという結果であった。

一般に欧米諸国の人々は,自己に対する評価が高く,アジアの中でも特に日本は自己評価が低いということが言えよう。文部省は,この結果を子供の個性が大切にされていない結果であり,駄目なところを責めるより,良いところを増やしていくことが大切であると分析している。ようするに叱るよりほめて育てよということである。

しかし,日本の子供たちは欧米の子供たちより,不正直で不まじめで,親の期待にも添えない子供ばかりなのであろうか。少年の犯罪率から見れば,明らかに日本の子供たちの方が,犯罪を犯さないことは事実であり,また小中学校の大部分の児童生徒は、学習や清掃活動に真面目に取り組んでいる。そして欧米の子供の実態と,8割の親が満足しているという親たちの評価は明らかに一致していない。これはどう考えたらよいのだろう。

2013年6月7日金曜日

科学という学問①  社会科学の曖昧さ

大学時代に、社会科学系の講義を受けていて「これは、学問という名にあたいするものなのか」とかなり真剣に悩んだことがある。自然科学の持つ厳密さに比べ、経済学や社会学のなんと曖昧なことか。同じ統計資料を使いながらも、真反対の結論を導き出せるものを学問と呼べるのだろうかと思ったのである。

古代ギリシャ人は「真に学問といえるのは、神学 哲学 数学しかない」と言っているが確かにその通りなのだろう。

実は、社会科学系の学問が導き出せることは、「正解」ではない。もちろん「結論」でもない。AはBより、より良い可能性が高いという「見解」が出てくるだけである。そのため別の視点から見るとBの方がよいという見解がすぐに出されることとなる。

その曖昧さに耐え、さらに情報を精査し、見解の精度を高めていく作業そのものの中に社会科学系の本質があり、また存在意義がある

・・・と理解はしているのだが、昨今の「アベノミクス」や「消費税」の是非について、識者が口角泡を飛ばして議論しているのを見ると、いったい大学で何十年も研究してきたのはなんだったのだ、消費税を上げた方がよいのか、上げない方がよいのかぐらいは、結論を出せよと皮肉を言いたくなる。

経済評論家とか大学の教授という連中が、TVで、経済情勢について分析してみせたことが、何年か後に間違っていたことわかっても、平然と、次の問題について解説をしているのを見ると、人間的な薄っぺらさというか自分の職業に対する倫理観のなさを感じることがある。

社会科学系の学問が持つ本質的な曖昧さにあぐらをかき、自分の言動に責任をとるという世界に生きていないのである。

先ほど書いたように、曖昧さに耐えながらも、さらに情報を精査し、見解の精度を高めていく作業を常に行い、本質に迫るという真摯な態度と、自分の出した見解に誠実さのない人は、学者の名には値しない。

クレモナの新作は画一的か?

以前、ある掲示板を読んでいたら、次のような意見があった。

「Cremonaの新作は、どれもこれも同じように見えるのは、僕だけでしょうか?工場製E.H.RothのばらつきよりCremona新作の方がばらつきが小さい様な気がします。Cremonaのヴァイオリン製作学校の出身者達は、大きな工場の技術者達の様な感じがします。」


たぶんクレモナの手工品は、画一的であると言いたいのだろうと思うが、基本的に工場の製品と手工品を比べていることと、クレモナの楽器についての認識の2点で、間違いがあると思う。
 

まず「工場製E.H.RothのばらつきよりCremona新作の方がばらつきが小さい様な気がします。」と言う意見だが、工場の量産品は、値段によって、使っている材料、ニス、機械で作る部分と手で作る部分が全く変わってくるので、最下層品と最上品では音色、外観とも全く違うのは当たり前である。そういうものと比べ、Cremona新作の方がばらつきが小さいのは、当然である。

またクレモナの楽器製作者は、同じ学校を出ていることは事実である。しかし一時期(ちょっと昔だが)、新しい楽器を探して、イタリアの新作を結構試し弾きをしていた時の経験で言うと、同じ程度の金額のクレモナの新作といっても、けっこうばらつきが大きく、音色もそれぞれ個性的だと感じた。ある一定以上のレベルを確保しているという意味では、ばらつきが小さいと言えるかも知れないが、製作者によって音色、音量、外見は様々だった。

2013年6月2日日曜日

クレモナの名器 虚構と真実① ブラインドテストの結果に想う

テレビ番組で、ストラディなどの億単位の名器と十万円台の普及品のヴァイオリンを二つを弾き比べ、当てるというものがある。番組自体は、脚本通りの展開ではあるのだが、そこも含めて、おもしろおかしく見させてもらっている。また確かに普及品とストラディでは、音色に違いがあることがわかる。

しかし、現在の一流と言われる製作者の楽器と昔の名器では、どれくらいの違いがあるのだろう。

だいぶ以前に、テレビ(確かNHK)で、いろいろなヴァイオリンを観客には演奏している姿が見えないようにして、よいと思う順番をつける(か、ストラディをあてるだったか)という番組があった。弾く楽器は、ストラディ+四つぐらいの楽器で、ストラディ以外の楽器は、19世紀から現代の製作者による新作で、楽器としてはよいものである。

こういう試みは日本だけでなく、外国でもよくおこなわれるようだが、結果はいずれの場合でも、決してストラディは上位には評価されない。NHKの場合は三番目ぐらいだったと思う。これは一般の人だけでなく、専門家に聞かせても結果は似たり寄ったりのようである。ストラディの代わりに、同時代のクレモナの名器を持ってきても同じである。
よくクレモナの古い有名な楽器につけられる「特有のシルバートーン」だの「ビロードのような」だの「倍音の多い深い音」だの「遠鳴りのする」だのという言葉は何だという結果である。

これはどう考えればよいのだろう。


2013年5月25日土曜日

世界の宗教 入門編  ユダヤ教 キリスト教 イスラム教

宗教について、その違いがよくわからなかったので、だいぶ以前に、考えを整理するために書いた自分用のメモのようなもの。当たり前のことしか書いてない。



(1) ユダヤ教 キリスト教 イスラム教の違い

どれも一つの「造物主」以外は認めない。一神教であることは一緒

①ユダヤ教
世界最古の一神教 当時は多神教が一般的であり、なぜユダヤ人が一神教を考え出したのかは不明。荒涼たる砂漠と岩山のみが広がる場所にいると、万物に神が宿るという考えは出にくいという話も。確かに、岩や砂漠に神がいるとは考えにくい。

2013年5月18日土曜日

チェロの音 遠鳴りのする楽器の正体

遠鳴りのする楽器という言葉がある。

「この楽器は、近くではそれほどの音ではありませんが、離れて聞くとすばらしく響く、遠鳴りのする楽器です」などという話が、時々披露される。

若い時は「弦楽器の神秘」とか思いましたが、最近は「素人は、自分で弾いていて美しく聞こえてくれればいいんだよね。遠くで聞いてくれる人なんかいないしね。まあプロは大変だよね」といって受け流すようになりました。


2013年4月29日月曜日

戦前の家庭教育① そんなに昔はよかったのか

あるブログに次のような言葉があった。

「アメリカ文化の根底にはキリスト教があります。キリスト教の黄金律は『自分にして欲しいことは人にもしなさい』です。
 それに対し日本の文化には儒教、仏教、神道があります。日本の教えは『自分にして欲しくないことは人にしてはいけません』です。これから始まって日本では『人に迷惑をかけてはいけない』ことになり、消極的になって『何もしない方が良い」ことになり、また』人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない』という風潮が生まれてくるのかもしれません」・・・・。

 
  儒教、仏教、神道と「自分にして欲しくないことは人にしてはいけません」との関係はよくわからない。しかし、実際、私はこのような言葉を具体的に親から言われたないものの、社会的風潮として、「人に迷惑をかけてはいけない」と子どもを諭す雰囲気は確かにあった。

そして非行少年は、必ずといっていいほど次のように言った。  

    「だれにも迷惑はかけてない」

しかし、これは日本の子育ての伝統ではなく、戦後に生じた傾向である。

2013年4月22日月曜日

おくりびと 映画の中のチェロ


   先日、邦画「おくりびと」をあらためてDVDでみた。以下の文章は、以前みた時に書いた感想である。 

   邦画「おくりびと」をみた。主役の俳優はプロオケのチェロ奏者という設定で出演している。
    今まで、この種の設定で、まともなものは見たことがない。弦楽器にせよピアニストにせよ「演じるにせよもう少しまともにやれよ」と言いたくなるものばかりであった。
    その点、洋画は、こういう場合、何ヶ月かは特訓をするらしく、それなりに見られる物に仕上げてくる。こういう面からも邦画はチャチというイメージをずっと抱いていたのだが、この映画に関しては違った。

六十にして惑う

徒然cello日記として始めたのだが、肝心のチェロについてはさっぱり書かなくなってしまった。

長年続けてきた交響楽団を休団したのは、何より目が衰え、楽譜がはっきり見えなくなったことがあるのだが、何か心に張りがなくなり、何をするにも億劫になってきたことが大きい。

そういう気分に加え、たぶん定年ということが現実的に感じられる年齢になってきたことから、来し方を振り返り、今後のことを考えてしまうことがある。

四十而不惑、 

五十而知天命、 
六十而耳順  

孔子は本当に思って言ったとすると、彼は実に人間的に心身とも逞しい人だったのではないかと感じている。(実際、孔子は身長180㎝を超える大男だったのだが)
自分だったら断定的に人生をこういうふうに言い切れないからである。

心身の衰えを感じ、子どもが手を離れ定年を迎える六十歳前後は、もう一度、自分の生き方を考える時期となっている。

孔子の時代と比べ、はるかに寿命がのび、人生のサイクル自体が変わっている現在は、六十にして、今一度惑うのである。

2013年4月19日金曜日

秀頼は秀吉の実子だったのか


    秀吉と淀君の間には、二人、子どもが生まれている。一人目は鶴松、二人目が秀頼である。豊臣秀吉は、多くの側室を抱え、女好きであったことは有名である。言わば精力的な男なのである。普通の男子であれば、10人以上の子どもがいても不思議はない状態である。 しかし、淀君以外には、全く子どもが生まれていない。それで、既に秀吉生前の頃より、秀頼は秀吉の実子ではないということが言われていたようである。

※こう書くと必ず長浜時代に一男一女がいたという話が出てくるのだが、これも実子説、養子説両論があり、確定された話ではない。実子が生まれたのであれば、同時代の文書に何か記述があるのではないかと思う(「木下殿に子どもがお生まれになり、喜んでおられる」とか)が、全くみあたらないようである。また母親の名前もはっきりとしない。養子であるなら、政治的な感覚の鋭い秀吉のことなので、それなりのところからもらい、そのことに関する伝承や記述がどこかに残るのではないかと思うが、それもない。
もっとも同時代に生きた柴田勝家でさえ、勝里、勝忠という実子がいたようだ程度しか伝わっていないので、この時代はそんなものだったのかもしれないが、一方、前田利家の実子に関しては、生年、母親共にはっきりと記録に残されている。滅び去った者は記録も残せないということだが、秀吉は太閤になってからでも自分の記録を整備できる時間はあったのだから、もっと長浜時代のことがはっきりしても良いようには思う。結局、子どもはいなかった、もしくは子どもは生まれたのだが、表に出せないような事情があったのかも知れないという感じがする。
またおねねと結婚したのが1561年、長浜に城を築いたのが1575年で、25歳~39歳までの最も生殖活動が盛んな時期に、子どもができていないのだから、やはり無精子症もしくはそれに近い体質だったのは間違いないのではないだろうか。



   現在でも、文献を詳細に分析して、様々な説が述べられているが、厳密には、淀君自身しかわからないことであり、DNA検査でもしないと、現在でもわからない話ではある。(秀吉は火葬ではなかったと記憶している。秀頼は灰になってしまったようだが、国松や天秀尼の遺骸はないんでしょうかね。)そのため、どんなに詳細に検証をしても、結局、憶測にしかならないのですが、私の印象を書いておきます。

    鶴松に関しては、秀吉はその誕生を大変喜び、かわいがっている。自分の実子でないかもしれないという様子は、ほとんど、うかがえない。たぶん本当に子供ができたと思っていたのだろう。
  しかし、秀吉の思いとは別に、鶴松は秀吉の子では無い可能性は高いだろう。たぶん無精子症もしくはそれに近い秀吉に子供が授かる可能性は限りなく低い。しかし、それでも鶴松は秀吉の実子である可能性は0ではない。

2013年4月18日木曜日

正直・勤勉という価値観  ~日本・欧米・中朝~

  日本人においては、「正直」「勤勉」であるということは、当たり前のことであり、小さい頃から特に躾けられる項目でもある。そのため他の国の人も同じようなものだろうと考えがちなのだが、実はそうではないということに近年気がつくようになった。


  どの民族にも、道徳という概念はあり、勤勉、正直という項目も、望ましい守らなければいけない項目としてあるのだが、その徳目の優先順位には違いがある。   日本では「正直」「勤勉」は、まず第1位か2位の最上位にくる概念であるが、他の国では、他の項目が優先される場合がある。このことに長らく気がつかなかったのは、欧米諸国、特に新教の国々では、日本とは違う経過を取ってだが、たまたま「正直」「勤勉」は日本と同様に上位項目となっていたので、これは全世界共通となんとなく思ってしまっていたのである。中国や朝鮮、イスラム諸国では、また事情が違うのである。
 昔は、日本人も中国朝鮮人もよく似た価値体系を持っているものと思っていた。ところが明らかになっている歴史的事実でさえ、勝手にねじ曲げ、自分たちに都合の良い歴史をこれこそ事実であると強弁することがわかって以来、この人達は日本人とは別の価値体系で動いている人たちだということがわかってきた。ではどこがどう違うのであろう。

戦後政治の悲劇 まともな野党がないということ

   日本政治の悲劇は、まともな野党が育たなかったことだと思っている。1980年代までは、自民党に変わり得る野党と言えば、社会党しか存在しなかった。社会党は、複雑な性格を持った政党だったが、常に左派の力が強く、革命路線こそ捨てたと言ってはいたが、社会主義を標榜することはやめなかった政党である。国民からすると資本主義でなければ社会主義による政治・経済という選択しかなかったこととなる。こういう国は珍しいのではないか。アメリカやイギリスは二大政党政治であるが、革新系であっても社会民主主義路線であって、結局は資本主義という国家体制内での選択である。
    日本という国には、すでに戦前の段階から、共産主義系の影響と浸透が強かったことがわかるが、国民としては、いかに自民党に飽きが来たからといって、まさか社会党に政権を任すわけにも行かず、結局鬱々とした気分を持ちながらも、自民党を支持するしかなかったわけである。自民党政権が長期に渡った一つの理由である。


2013年3月23日土曜日

欧米人の価値観⑦ 夫婦と愛情


 「日本人は,夫婦になり子供のいない間は,男女の関係だが,子供ができるとすぐにお父さん,お母さんの関係になる。なぜ西洋人のように夫婦としての関係をいつまでも保たないのか。外人は,男女の関係を何歳になっても持ち続け,子供がいても二人での生活をエンジョイしようとする。」というような意見があり,西洋人のこのようなる面をよいものだと礼讚し日本でも実践しようとする人がいる。そしてなぜ日本人は奥さんに「愛している」とか言わないのだ・・等という外国人からの批判もある。

  古代ギリシャ人は,愛というものを4種類に分類した。第1は,男女の愛,これは性的な欲望がベースにあるもので性愛と呼ぶ。第2は家族への愛,第3は友人への愛,そして最後は神への愛(神からの愛)である。

欧米人の価値観⑥ 自由と運命

「運命はかえられる」という言葉が、洋画を見ていると結構頻繁に語られることが多いのに気付く。日本人にとってこの言葉は、「生きていく上では、いろいろな障害やトラブルもあるが、強い意志をもてば、道はひらけるものだ」という感じで捉えられており、いわば、流れに流されるだけでは駄目だよなあという感じの、日常的感覚の中で当たり前の言葉としてとらえられるものである。

しかし、洋画では、この言葉が結構繰り返し何回も、なにか自分に言い聞かすかのように使われている。この執拗さは少し気になるところである。

欧米人の価値観⑤ キリスト教的死生観と心臓移植

先日、アメリカの映画を見ていて、埋葬時に、「もとの土塊にかえる」という言葉があった。今更ながらだが、欧米人にとって、肉体はもともとただの土塊にすぎないという事実を思い出させられた。

デカルトがこんなことを言っている。
「この世の中に確かに存在していると言えるものは三つしかない。それは 物質 魂 神である」そして「人間のみが物質と魂が融合した存在である」

彼の考えによると、水や土、山や海など自然界の物はもちろん物質なのだが、動植物も土や岩と同じく、ただの物質にすぎない。動植物は成長し、動き回るわけだが、それはただの物理的・化学的な反応でしかないと考える。

動物、植物という訳語は、明治の先人が考えたものだが、思想的背景をよく考えてつくったことがわかる。

2013年2月24日日曜日

歴史の共有 東アジアと儒教的価値観

   日本と中国・韓国との間で、近現代の歴史解釈の違いが問題化すると必ず、学者が集まって、歴史認識の共有をはかろうという話が出てくる。まあ無駄なことはおやめなさいと思うのだが、この両国と認識の共有が困難な理由を述べておこう。


  中国・韓国(たぶん北朝鮮も)の人たちの思考の根底には、儒教的価値観が色濃く残っている。

   儒教の徳目で上位にあるのは「仁」の実現だが、その根本は「孝悌」である。親や兄、いわゆる目上の人を敬い大切にせよという教えである。
そのため、親に子どもは服従することは当然ということになる。漢の劉邦が馬車に乗っていた時、狼にねらわれ、車体を軽くするために子どもを放り投げようとしたという記述があり、その時、劉邦は「なぜおまえ達は親を助けるため、自分から馬車から降りないのだ」と言ったという。この考え方は、中国人にとっては当然のことなのであろう。

2013年2月23日土曜日

欧米人の価値観④ 欧州人が AT車に乗らない理由

私は未だにMT(マニュアルシフト)の車に乗っている。日本では、いつのまにかAT(オートマティック)比率が98%を超えてしまったので、MTの車を探すのに苦労する状態である。ところが欧州ではMT比率が未だに90%以上である。
何故彼らは、MTにこだわるのであろう。この理由について明確に述べた自動車評論は、見つけることができなかった。

私が、ATが嫌な理由は、ATの車は何か「自分で勝手に動く」という感じがするからである。きちんと車を自分でコントロールできない感じが嫌なのである。たぶんヨーロッパ人が、嫌なのもこの点だろうと思う。

ヨーロッパは、氷河地形であることはよく知られている。そのためフランスあたりでも表土が30㎝程度、ドイツあたりだと15㎝程度で(←はるか昔に習った高校地理でのうろ覚えで不正確である)、その表土が流失してしまえば、その下は岩盤である。   基本的に痩せこけた土地なのである。

2013年2月15日金曜日

チェロの購入② 楽器の選び方 その曖昧模糊

   最初の楽器は、よくわからないまま予算の範囲内で、購入してしまうことが多い。しかし、2代目の楽器はほとんどの場合、一生つきあうことになるので慎重に選びたいところだが、 なまじ音色の善し悪しも少しわかるようになっているので、かえって出自の悪い楽器を選んでしまうこともある。


   楽器を選ぶ時は、まず「音色・音量」が気になるため、無意識のうちに重要度が、音色・音量→弾きやすさ→楽器の色や形→健康状態(キズや割れ、剥がれ、指板や駒、エンドピン等の状態)となってしまいがちである。そのため音色の良さに惚れ込んでしまって、時に、とんでもない楽器をつかまされてしまうこともある。健康状態等も総合的に判断して、楽器を選ぶようにしましょう。

(1) 新作がよいのか、古い楽器がよいのか
    基本的には新作を選ぶほうがよいと思います。
  新作のよい点は、製作者が確定しており、値段もそれなりに適正であることや、健康な楽器が多いことである。
 古い楽器は、特有の音がするため、手にすると心がひかれるが、破損が多く、購入後も不具合が出て手がかかる場合がある。チェロの修理は、何千円ですむことは稀で、たいてい何万、へたすると何十万とかかってしまうのは、経験した人もおられるでしょう。
    また価格は楽器屋が勝手につけるわけだから、この価格が適正なのかどうか何とも言いようがない。楽器に貼ってあるラベルは、まあ適当に貼ってあるだけと考えた方がよい。リスクが大きいのである。

どうしても古い楽器を購入したい場合は、
①信用できる店で(=信頼できる人に紹介してもらうのが一番良い) ※お店の選び方は「チェロの購入① 楽器店の選び方」を見てください。 
②楽器の状態をよく説明を受け、納得の上で
③不具合が出た場合にそなえ、なるべく近くに腕の良い楽器店があること(場合によっては何回も通うことになるので)

が、購入の目安になると思います。

古くて良い楽器は、店に出回る機会も少ないです。
基本的に古い楽器選びは、素人は手を出さない方がよい分野と考えましょう。

2013年2月10日日曜日

運動部の指導者考 体罰と指導

         ~大阪の事件に寄せて~ 
  大阪の高校で、バスケ部のキヤップテンが自殺するといういたましい事件が起きた。体罰に耐えかねての事件とか、いやあれは暴力だとか、様々な意見があり、事態はまだ収束していない。

※内容は、報道されたことのみを材料にしている。マスコミの報道は、偏りがあり、自分の報道したいこと(いわゆる事件性の感じられることには大変敏感である)以外は、見向きもしないということもわかっている。なるべく客観的に述べたつもりだが、本当の真実はまだ明らかではありません。今のところ、こう感じるという文章です。

   まず体罰と暴力はどう違うのだろう。一般的にはこのような感じだろう。

暴力は (清掃をしない生徒に対し)
  先生:おい、君、そうじをしなさい
    生徒:うっさいんじゃ ボケ
    先生:なにを言ってるんだ。そうじをしろって言ってるんだ。
    生徒:うぜーなあ、うっさいいうてるやろ かすがあ
    先生:なにい いいかげんにしろ こっちへこい 

・・・で始まるのは、たぶん暴力でしょうね。

チェロの購入① 弦楽器販売店の選び方 その魑魅魍魎


チェロを始める時には、学生なら学校の楽器、教室で習う場合はその教室の楽器を借用することも多いが、しばらくすると、必ず自分の楽器が欲しくなる。

そして近くの楽器店に飛び込んで、楽器を見て回ることになる。

ところが、この弦楽器販売店というのが、かなりのくせ者である。
商売なので、仕方がないところもあるのだが、結果、とんでもない楽器をつかませられて泣く人も結構いるのではないかと思う。

この業界は、品質や販売について法律上の規制がない。
一応、中古楽器を売るのなら、古物販売の許可は必要になるが、それさえ持っていない店もある。
口先三寸で販売して、だまされた方が悪いといった雰囲気さえある。


楽器購入後、どうもおかしいと思って再度訪問すると、彼らが使う言葉にこんな言い方がある。

「お客様自身が、この楽器に100万の価値があると判断されて購入されたのでしょう」(=私の責任ではありません)

はっきり言って、詐欺師の言い方である。

2013年2月9日土曜日

ベートーベン 交響曲第5番「運命」  休符 の意味

   先日、フルトヴェングラーの第5の1楽章をあらためて聞いてみた。曲自体は、結構ねちっこい内容なのだが、情緒に流されず、強靭な精神性を感じさせる、最終的には乾燥した空気の中で、雷鳴が「カラッ」と轟いたような演奏をしていた。日本人にはなし得ない演奏だった。

 ところでこの曲の冒頭は、大変有名である。「ジャジャジャジャーーン」というフレーズは、この曲の大きな主題である。しかし、ご承知のように、このフレーズは8分休符から始まる。

「(ウッ)ジャジャジャジャーーン」なのである。このフレーズはすべて同じパターンである。

   ベートーベン自身は「運命はかく扉をたたく」といったそうだ。なるほど8分休符から始まるこの曲は、明らかに何者かが私の人生に影響を及ぼす情景をあらわしている。何かにドアをたたかれるという受け身的な自分を、この休符で表現しているのである。


欧米人の価値観③ 自立した個

 自立した個という言葉がある。個の確立とか自立した個というのは,現在の日本の教育の一つの流れでもある。そして「自立した個という存在は好ましい」という価値観が現在の主流にもなっている。このような近代的な個という概念は,欧米諸国で成立したものであるが,ここでは,はたして自立した個ということが本当にありえるのかということを述べておきたい。

   普通,自立した個という言葉のイメージとしては,あくまで理性的,意志的な人間の事であり,他の影響や自分の弱い部分に流されることなく,内面の価値観や道徳律に従って、毅然としてやるべきことをおこなっていく人間というものであろう。このような人間像は,先に述べたように西洋的な価値観が色濃く反映しているとは言え,一人の人間としての理想的姿として,普遍的な要素をもつもので,その意味で現在の日本でも一般的に受け入れられやすいものである。しかし,実際問題としてこのような人間がどれほど存在し得るのであろう。

2013年2月8日金曜日

欧米人の価値観② 罪の文化と恥の文化


   ドストエフスキーが、「神が存在しないとすれば、なんでもやっていいじゃないか」というような意味を言っている。一方、日本にきた宣教師が「日本人は神を信じていないのに道徳心が存在するようにみえるのは不思議だ」ということを言ったという話もある。 

   西洋人はこんなことをたびたび言う(らしい)。道端にお金が落ちていた時、もし人が見ていたら、日本人は拾わない(自分のものにしないという意味ですね)だろう。それは人の目を気にして、そういう行為をすると人に笑われると恥ずかしいという感覚があるからだ。そのかわり人がいなければ黙って拾って自分のものにしてしまうだろう。これを「恥の文化」という。我々西洋人は、人が見ていなくても、自分の物にはしない。そういう行為は罪と考えるからだ。言わば道徳律が内面化している。だから「恥の文化」より「罪の文化」のほうが優れている。

欧米人の価値観① 人生の意義とキリスト教 

   欧米の障害者を見ていると,人生を積極的に生きていこうとする姿勢を強く感じる。車椅子によるマラソン,テニスに取り組み,ダンスに挑戦する人までいる。物おじする事なく,常に挑戦し続ける姿勢は学ぶべきものがある。障害者に限らないが彼らのこのような人生に対する姿勢はどこから生まれるのであろうか。彼らの自然観,子育てのあり方等いろいろな要因があるが,ここでは宗教面から考えてみよう。

    一般に障害を持って生まれたり,事故で障害を受けたりすると,(また不運に見舞われてもおなじだが) 人は「自分は生きていく価値があるのか」という厭世観にとらわれる。こういう状態に落ち込むと,なかなか脱出するのに時間がかかり,しだいに心が病的になってしまうこともある。

日本人の目から見ると,なぜ欧米の人達は重い障害を持ちながらも,あんなに明るく活動的にふるまえるのか,不思議というか感覚的に分からないという感じがある。

2013年1月26日土曜日

ボクシングに想う

   ボクシングは、攻撃を手に限定し、成り立っているスポーツである。顔面とボディへの攻撃が主となるため、特にボディは鍛え上げ、少々の攻撃を受けても耐えられるようする。腹を打たれダウンするのは、明らかに素人でしかない(まあそれでもタイミングが合うと倒れてしまうが)。顔面は鍛えようがないので、様々な防御方法が発達することとなる。そのような様々な防御とパンチを組み合わせ、ボクシングは成り立っている。四回戦ボーイなら、ただのはったりと勢いで倒すことも出来る。しかしチャンピオンになるには、地味な日々のトレーニングの積み重ね、そして相手を分析し攻防を組み立てる冷静な目、そして根性がなければ、勝利を得ることはない。ボクシングはいわば獣性と科学の融合なのである。おもしろさもそこにある。

   これらの要素を一人の人間が備えていることは少ないので、よきトレーナーの存在が必修となる。

顔面への攻撃 練習の難しさ

 今のK1等を見ていても、KOのほとんどは顔面へのパンチである。顔面への攻撃は、直接脳を揺らすので、立っていられなくなる有効な技であり、格闘技の場合、どうしても練習する必要がある項目である。しかし、練習の仕方が難しい。各種目別の練習方法は次のようである。

伝統空手
  顔面のパンチに関しては直接当てないで、直前で止めるようにする。いわゆる寸止めである。これに関しては、普段寸止めで練習していて、いざという時に、浸透力のあるパンチを当てることが出来るのかという批判がある。また案外、止められなくて顔面骨折や眼球を損傷して視力をなくすなどの大きな事故が多いのも事実である。

極真空手
   顔面パンチそのものを禁止する。これにともなう弊害は以前記述した通りである

防具空手
   伝統空手や極真空手系の一部は、どうしてもあてないとわからないことがあるということで、頭部に防具をかぶって、実際当てるようにしている。この欠点は、衝撃を完全には吸収できないので、顔面そのものに傷がつくことは少ないが、頸椎や脳そのものに障害が残る可能性があることと、防具そのものが息苦しいことであろう。決して、安全ではないのである。

少林寺拳法 
   昭和50年ごろまでは、グローブと胴を着用して、顔面も含めがんがん殴り合うというもの。今の少林寺拳法には見られない野蛮さである。当然、脳への衝撃が大きいので、死者が出たのは前述したが、後遺症が残ることも多く見られたようである。また胴に蹴りをもらうとバーンと大きな音がして、一本としてとられてしまうので、胴をカバーしながら(顔面ではない!) 前に出るということになる。これは格闘技としては、あり得ないフォームである。