2013年5月25日土曜日

世界の宗教 入門編  ユダヤ教 キリスト教 イスラム教

宗教について、その違いがよくわからなかったので、だいぶ以前に、考えを整理するために書いた自分用のメモのようなもの。当たり前のことしか書いてない。



(1) ユダヤ教 キリスト教 イスラム教の違い

どれも一つの「造物主」以外は認めない。一神教であることは一緒

①ユダヤ教
世界最古の一神教 当時は多神教が一般的であり、なぜユダヤ人が一神教を考え出したのかは不明。荒涼たる砂漠と岩山のみが広がる場所にいると、万物に神が宿るという考えは出にくいという話も。確かに、岩や砂漠に神がいるとは考えにくい。


神の名は「ヤハウェ」すべての創造主であり唯一の神。ユダヤ人はヤハウェ以外の神を信じないことを神に約束 また神よりイスラエルの地を与えられたと信じている。しかし、紀元前に他国の植民地となり、以後、世界各地に散らばっていく。

どこの国にあっても、ユダヤ教を捨てず、戒律を守って生活する。決してその国の風俗・習慣に同化しないことと、彼らは商才があり、金融業(いわゆる金貸し、当時は卑しい職業とされる)などに従事したため、異質な人々と見られ差別を受けることとなる。

また特にキリスト教の国においては、イエス・キリストを十字架にかけたのはユダヤ人という意識があり、そもそも憎むべき存在であったため、迫害をうけることとなる。このようなヨーロッパに広がるユダヤ人蔑視の感情は、最終的には、ドイツ人によるホロコーストにつながる。

ユダヤ人は、自分たちの国がなく、国家の保護や国際的な発言力がないことがホロコーストにつながったという意識を持ち、シオニズム→イスラエルの建国を実現するが、さらにこのことが、すでにイスラエルの地域に住んでいたアラブ人との摩擦を生み、中東紛争の火種となっていく。



②キリスト教
イエスが始める。パレスチナに生まれたユダヤ人の大工の息子。父は小さい頃になくなった様子で、以後、大工の棟梁として大工のグループを率いる。説教を始めたのは、三十代になってからと思われる。キリストとは本来メシア(救世主)のギリシャ語訳で、彼自身がメシアと自称したかは不明(私がわからないという意味)

当時、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、その状態から救ってくれる救世主の登場を渇望していた。その救世主のイメージとは、あのローマ人をけちょんけちょんにやっつけてくれる強い人というものだが、イエスにそれを期待したユダヤ人は裏切られる。

 イエスは「汝の隣人を愛せ」「右の頬をうたれたら、左の頬をさしだせ」という博愛主義であり、ユダヤ人が期待するようなことは言っていなかった。その結果、あいつはインチキだということで、訴えられ、最後には磔になってしまうのだが、イエスにとってみると、勝手に思いこまれ、勝手に期待され、そして訴えられるというわけで、いい迷惑であったろう。

イエスは、大工の棟梁として職人グループを率いていたようで、仲間とおいしい物を食べたり、酒を飲む機会も多かったようである。キリスト教に食物に関する禁忌が、ほとんどないのは、彼の嗜好が反映していると考えられる。

イエスは、死後、復活したという伝説が作られ、イエスが人間なら復活するはずがない・・・とするならば、イエスは神の化身であるという論理展開になる。いわゆる神と子(=イエス)と精霊は同じものという三位一体の思想がでてきた段階で、キリスト教の独自性が高くなり、キリスト教の確立となるのである。また、ユダヤ教の選民思想と違って、キリスト教を信じる人は、民族を問わずキリスト教徒と認められるので、後に世界的な宗教として広がることになる。


③イスラム教
7世紀に砂漠の地にマホメットが現れる。(正確にはムハンマド)彼は、神の声を聞いたとしてイスラム教を開く。特徴は、神の声を聞いたもの(=預言者)は、今まで何人もいた、曰くモーゼ イエスなど、しかし私、マホメットこそ、神の最も新しい声を伝えるものである。だから皆の者、私の言うことを聴け というところであろう。
  細かい戒律があることが特色。その戒律違反の罰則も大変厳しく、そのためイスラム教の国においては、犯罪は案外少ない。この自己主張の激しい砂漠の民をまとめるには、厳格な戒律が必要だとマホメットは感じたのであろうか。

この三つの宗教は、究極のところ、同じ創造主を信じる一神教である。ところが仲が大変悪いというより、お互いに相容れない存在となっている。お互いの言い分はこうであろう。

ユダヤ教徒の見方
  神は、ユダヤ民族を選び、ユダヤ民族も神を信じ、お互いに契約を結んだ。そしてユダヤ民族は、神から課せられた厳しい戒律を守り、神に答えようとしている。この信仰は、神とユダヤ民族の間にのみ成立する。(ユダヤ教は、他の民族との間には成立しないということになる、いうよりユダヤ教を信じた者はユダヤ民族と呼ばれると言うことになる)

だからイエス等という存在は、「信じる者は(だれでも)救われる」だと? 救われるのはユダヤ人のみだ。酒を飲んでも良い、何を食べてもよいだと?戒律を守るのは、神の教えだ。イエスは神だと?何をばかな、彼はただのユダヤ人の救世主を気取った大工の息子だ。という感じで、ユダヤ教徒から見たキリスト教徒は、「ユダヤ人の変わり者が、神の名をかたって、たわごとをしゃべったことを信じている変な奴ら」でしかなく、彼らにとっては、神の教えである戒律を守り、神に選ばれたユダヤ人であるこのユダヤ教のみが「宗教」であり「信仰」であり、たぶんキリスト教(というか他のイスラム教などを含めた全部の宗教)などは、宗教であるともとらえていないと思う。


キリスト教徒の見方
 キリスト教徒とは、イエスを神と信じる人たちである。イエスを神とするならば、キリスト教徒こそ、直接に神の言葉を聞いた者達で、この言葉こそが真実と言うことになる。ユダヤ教徒などは、古い神の言葉を未だに旧態依然として信じている愚か者ということになる。ユダヤ人が読む聖書は「旧約聖書」ということになるわけですね。ましてユダヤ人は、イエス(=神)を磔にした大馬鹿ものどもで、地獄にでも堕ちろという感じに思っている。またイスラム教に対しては、イエスを神と認めない(ただの預言者で人間)とんでもない異教徒にすぎない。

イスラム教徒の見方
ユダヤ教もキリスト教も古い!古い! あんな古い神の言葉を後生大事に守っている旧態依然の輩。わがイスラムこそ神の教えという感じ。まして十字軍のことがあり、イスラム教徒にとってキリスト教徒は、ただの略奪、暴行をを繰り返すならず者、強盗団としか見ていない。


というわけで、和解などまずありえないという感じですね。



(2) 日本人にとっての宗教
 ところで、日本は、八百万の神々がいる多神教の世界、山々や池、火や物、長じれば木々も神になる。日本中どこにでも神様がいる。ある一つの神がいろいろなものに宿る汎神論ではなく、全部違う神様である。こういう宗教は、他の神様に対しても大変寛容である。仏様が中国からきても、八百万の神様に一人増えたところで、何と言うこともない。「よくいらっしゃいました、よろしく」というようなものである。キリスト教の神様がきでも、同様の扱いである。すべて飲み込まれてしまうのである。

 実は、宣教師はこのことに気づく。唯一神であるはずの「ゴット」が、八百万の神の一人になってしまってはこまるのである。そのため、ゴッドを神と訳してしまうとまずいので、「御大切様」とかそのまま「ゴッド」とか言ったわけだが、いつのまにか「神様」というようになってしまった。日本にもキリスト教徒と称する人はいるし、教会に行く人もいる。しかし、日本のキリスト教徒の多くは、正月には神社に行くし、行けば手も合わせる。正月飾りも飾る。しかし、この時点で厳密に言えばキリスト教徒としてはアウトである。創造主以外を認めて、手をあわせた時点で、唯一神以外の神を信じたことになるからである。イザヤ・ペンダサンが指摘したように、日本人のほとんどは、多神教の世界に生きる「日本教」の信者で、そのなかで特に「ゴッド」という神様を重視する人たちや「仏」を重視する人たちもいるとしか言いようのない状態である。日本教キリスト派、日本教仏派・・という訳である。

※例外は、キリスト教でも原理主義に近い系統の人たち、戦国時代の浄土真宗(阿弥陀仏以外は原則拝まない、だから一向宗とも言います。今は過激なところがなくなり、寛容になっている) 、日蓮宗の系統の人たち(日蓮自身を神として、他は拝まない  これは現在もである)

 日本人は、生まれた時は、神社で祝い、結婚式は教会で、葬式は仏教でおこなって、なんの不思議も感じない。言わば神様はたくさんいるが、それぞれ得意分野があるので、それぞれの場合によって、お願いする神様は違っていて当然である。子どもには長寿を願い、病気にかからないようにお祓いをしてもらいたいという感じが強いので、神社に行くし、結婚式は、何となくかっこよい感じの西洋の神様の前がいいかなという感じだし、死んだらあの世に行ってもらうので、これは仏様がいいかなあという感じである。節操がないというという人もたまにいるが、日本教の信者としては、当然でなんの不思議もない行動である。 

 ただ、キリスト教徒やイスラム教徒に理解させることは、大変難しいですね。彼らにとって、多神教の進化した形が一神教と思いこんでいるので、説明しても「原始的な状態なのでしょうがないけど、その状態から早く脱して、キリスト教徒(もしくはイスラム教徒)になりなさい」と言われるのが落ちであろう。

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