2013年3月23日土曜日

欧米人の価値観⑤ キリスト教的死生観と心臓移植

先日、アメリカの映画を見ていて、埋葬時に、「もとの土塊にかえる」という言葉があった。今更ながらだが、欧米人にとって、肉体はもともとただの土塊にすぎないという事実を思い出させられた。

デカルトがこんなことを言っている。
「この世の中に確かに存在していると言えるものは三つしかない。それは 物質 魂 神である」そして「人間のみが物質と魂が融合した存在である」

彼の考えによると、水や土、山や海など自然界の物はもちろん物質なのだが、動植物も土や岩と同じく、ただの物質にすぎない。動植物は成長し、動き回るわけだが、それはただの物理的・化学的な反応でしかないと考える。

動物、植物という訳語は、明治の先人が考えたものだが、思想的背景をよく考えてつくったことがわかる。



学生時代にこれを読んだのだが、神と人間以外は、すべて物質というこの世界観に、異様な感じを受け、「この考えは欧米人にとって一般的なものだろうか」と首をひねったことを覚えている。しかし、こういう考えが出てくる基盤が欧米人にあることは間違いない。

キリスト教では、人間は神が土をこねたものに、魂を吹き込み作ったとする。死は、その魂が離れることであり、残った肉体は、ただの土塊となる。魂こそが重要であり、肉体とは、ただの物質であり、あるいはせいぜい精巧な機械という感覚である。

我々日本人がホテルに泊まって違和感があるのは、風呂とトイレが一緒になっているユニットバスであるが、欧米人にとってあの場所は、肉体というメカニカルな物を整備する場所という感覚なのだろう。

自動車を整備する時に、汚いエンジンオイルを抜くのも、車体にワックスをかけるのも同じ場所で行うのは当たり前で、それを違う場所でする方がおかしいという感覚があるのである。

このような宗教的な死生観の上に、心臓移植などの臓器移植は成り立っている面がある。日本人にとって心臓移植は、生命の継続という崇高な行為ととらえられているが、彼らにとって死体とは、もう使えなくなった自動車と同じで、それなら使える部品はどうぞ使ってくださいという感覚である。

そのため、臓器移植に関しての彼らの関心事は、死はいつなのかということで、それは「いつ魂は肉体を離れるのか」ということである。

ローマ法王ピオ12世は「個々の死の確定は宗教上・倫理上の原則とは関係なく、医学の判断すべき問題である」(1957)というスタンスを取っていたが、1985年 10 月 30 日にローマ法王庁の科学アカデミーが、脳死を人の死(=魂が離れた瞬間)と認めており、このあたりから心臓移植は医学の発達ともあいまって急速に普及することとなる。


心臓移植という医療行為は、彼らの死生観と科学的な事実を整合させながら成立させてきたものであり、科学という普遍的な衣をまといながらも、キリスト教的な考え方に支えられたヨーロッパの文化とも言えるものである。

彼らの死生観は、肉体から魂が離れた瞬間が「死」であり、そのためスイッチがオン・オフされるように、瞬間的に死を受け入れていくが、日本人の「死」の受容は、そのように明確なものではない。

医者が「脳死です」といっても、顔色は赤く、手を触れば暖かい。それをいくら医者が「死んでいるのです」といっても、受け入れられるものではない。(何度も言うが欧米人がこの状態で受け入れるのは、魂が離れたと考えるからであり、医者が思っているように、欧米人のほうが科学的に理性的に死を受け入れているからではない)


その暖かさに、全人的・統合的な生命がなくなっていることはわかっているのだが、生命のかけらを感じるのである。まだ「死んではいない」と感じる。それは、息をひきとっても、冷たくなっても、日本人はその生命の欠片を探し続ける。葬式が終わって肉体が無くなっても、その人の部屋にはいれば、またその人のいのちのにおいのようなものを感じていく。

日本人は、亡くなった人の「命のかけら」というようなものを何年もかかって、一つ一ついとおしみ、心に納得させながら、徐々に「死」というものを受け入れていく民族なのである。

医者やコーディネーターは、明らかに医学的に言って脳死は死なのに、何故理解しないのだと言う思いが強いのだろうが、人の死という概念は、たかだか「科学」という学問の一領域で決められることではない。欧米人でも、科学的な面からだけで受容しているわけではないことはすでに書いた。日本においては、「生命の贈り物」という感覚を強調することにより、心臓移植を広めようとしているわけだが、日本人の死生観に寄り添った心臓移植のあり方を考えないと、なかなかひろまらないし、今の状態では移植を受諾した遺族のほうにも葛藤が残り続けるだろう。

追記
心臓移植の広まらない理由の一つに、医者への不信感があるように思う。和田心臓移植をよく知らない人でも一般的に「医者選びも寿命のうち」と言う言葉があるように、医者自身が考えている以上に、普段の生活の中で、嫌悪感や不快感をもって病院から帰る人が多い。生殺与奪の権を持っているのでめったに言葉に出さないだけである。

私の感覚でも、医者という人たちは、精神的には未熟な人が多い感じがする。相当な年配の医者でも、学生としゃべっているような感覚が残る人が多い。

人間的に成熟する機会の少ない職種なのであろう。

また医者は、気位が高い一方、自己防衛の過度に強い人が多いので、医療事故が生じた場合(患者にはわからないがじつはかなりの頻度で生じている・・というより患者・家族に知られないで良かったという思いを一度でも感じない医者は皆無であろう )、医学界での自浄能力はないと考えた方がよい。一般的に何か起こっても上手に隠してしまう人たちというイメージが強いのである。

医者に人格的に未熟な人が多い原因は、職業的な立場との関係があるのだが、それはさておき

 このような人たちから、「もう脳死です。移植をお願いします」といわれても、そうおいそれとその言葉に乗るわけにはいかないという感覚がある限り、心臓移植は一般的なものにはならない。

心臓移植を広げようとすると、まだまだクリアしなければいけない課題が多いのである。

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