~大阪の事件に寄せて~
大阪の高校で、バスケ部のキヤップテンが自殺するといういたましい事件が起きた。体罰に耐えかねての事件とか、いやあれは暴力だとか、様々な意見があり、事態はまだ収束していない。
※内容は、報道されたことのみを材料にしている。マスコミの報道は、偏りがあり、自分の報道したいこと(いわゆる事件性の感じられることには大変敏感である)以外は、見向きもしないということもわかっている。なるべく客観的に述べたつもりだが、本当の真実はまだ明らかではありません。今のところ、こう感じるという文章です。
まず体罰と暴力はどう違うのだろう。一般的にはこのような感じだろう。
暴力は (清掃をしない生徒に対し)
先生:おい、君、そうじをしなさい
生徒:うっさいんじゃ ボケ
先生:なにを言ってるんだ。そうじをしろって言ってるんだ。
生徒:うぜーなあ、うっさいいうてるやろ かすがあ
先生:なにい いいかげんにしろ こっちへこい
・・・で始まるのは、たぶん暴力でしょうね。
先生も感情的になって手が出るパターンである。この場合も、なぜ手を出したのかと問われれば先生は「このままにしては、この子にとって良くないと思い、つい手が・・」と言うのだが、そんな言い訳はたいてい後付けで、子どもの態度にカッとなって逆上したというところが本当のところだろう。
体罰は
先生:おい、君、そうじをしなさい
生徒:うっさいんじゃ ボケ
先生:君の態度はとても容認できることではない。罰を与えるので、
手を机の上に出しなさい。五回、鞭で打ちます。
・・・というのは体罰ですね。イギリスはこの方式で、鞭で打つ回数も決まっていたと思うが、その後、これは禁止になって、また最近、容認への動きがあるとかないとか。
ただ、実際は、このような生徒がこのような状況で素直に手を机の上に広げるはずもなく、そこが現場の難しさだろうと思う。
また現実には、日本ではこのような懲戒的な意味での体罰は、制度化されていないし、結局、この懲戒的な意味での体罰と暴力の間に、その両方の要素が入り交じった領域があり、本人と保護者の納得の度合いや考え方、先生の手を出した後の生徒へのフォローの有無などがからみあって、問題が顕在化したりしなかったりということになる。
また日本でいう体罰は、先に述べた「懲戒的な意味での体罰と暴力の入り交じった」ファジーな領域のものであり、さらに暴力はだめだが、ある程度の体罰は容認する風潮もあるので、どこまでいいのかという線引きが難しく、受け止め方によって人様々となって、混乱を招いている。
今回のような部活動の指導に関して言うと、あくまで報道されている内容が事実だとしてだが、指導者としては、不適格だと思う。理由は以下のようなことである。
運動系の部活を指導すると、指導者にどうしても勝ちたいという思いが強くなる。これは、例えば、出ると負け、出ると負けという部活では、生徒も下を向いてやる気を失い、やりがいもなくなる。勝利をおさめると、生徒も、それまでの努力がみのったと思い自信も出てくるし、人間的にも成長するからである。
それなら勝つためにはどうしたらよいかというと、小中学校なら、手っ取り早いのは「厳しい指導」である。手を出しても小中学生なら、指導者に逆らうこともないし、自分の思うように動いてくれる。それに遠征の機会を増やし、強豪校との試合を増やすと、結構、子どもは上達する。指導者も保護者もよい成績が納められるので満足なのだが、子どもはどう考えているかは別問題となる。
小学生の頃、少年野球をやっていた人に、当時のことを聞いてみたら、一言「地獄だった」と言った人がいる。中学校からは野球以外の部活に入っていた。
高校生になると、まずよい資質を持った生徒をそろえるのが勝つ条件の一つとなる。高校の先生は、よい生徒を集めるために中学生に声をかけたり、中学校を回ったりして、とにかくまず生徒集めをする。その上で、この時点でも「厳しい指導」は「有効」である。
凡庸な指導者(先生達はその競技の専門家でないことも多く、その意味では、多くの指導者は凡庸ならざるを得ない面がある)にとって、「厳しい指導」は、効果をあげやすい指導方法なのである。また練習量を増やすために、寮生活をさせるところも見られる。ただ高校までいくと厳しい指導だけでは、せいぜい県大会上位または全国大会出場までが限界であろう。さらに上に行くためには、別のやり方が必要となるのだが それはさておき
運動系の部活動では、まず勝つことが大切と述べたが、部活動の目的は、あくまで子どもの成長であって、勝つことではない。勝つことによって成長するから、勝つことが大切なのである。桜宮高校の指導者は、上で述べたような過程で指導にのめり込んでいくうちに、部活動の本来の目的が薄れ、勝つことの方が優先事項になっていった感がある。また一つの試合で十数回以上手を出しているが、これはたたきすぎである。手を出すことに教育的効果があるとすれば、「手を出すぐらい先生は、真剣なんだぞ、今の君ではだめなんだぞ」と、生徒の心に伝えることにある。そのためには、一発か二発で足りるのであり、それ以上は、自分の怒りを生徒に向けているに過ぎない。
もうひとつ、重要なことがある。この事件は、体罰(暴力)に耐えかねて自殺したといわれているが、違う可能性があるのではないかと思う。
昔の生徒は、叩かれたり罵倒されたりして屈辱感を感じると、まともに反発して力を出すということがあった。そのため先生の方でも、そういうことを指導の手段として使うことがあった。今の45歳ぐらいから上の世代の話である。しかし、今の生徒は、それをすると立ち向かうということがなく、逃げたり、ひきこもったり、無反応になったりということが大変多い。そのため、現在の指導者は、今の生徒にあった指導方法を研究しているし、古い形の指導を主にしている指導者でも、ただ圧迫するだけではなく、指導の最後には生徒の気持ちが前向きになるように心がけている。
しかし、この事例ではそのような配慮をしたかどうかは不明である。むしろ、最近の生徒の傾向自体はわかっており、逃げるということもわかっているので、そのためその逃げ道をふさいでおこうとしている様子がある。
この指導者と生徒との間にはこういう会話があったという。
先生:部活動、やめるのか
生徒:やめません
先生:キャップテンやめるのか
生徒:続けます
先生:そんなら たたいてもいいな
生徒:はい
こういう状況で、生徒は自分から「やめます」とは言えない。
たぶんこの先生は、そういう状況をわかっており、事前に逃げそうな方向を予測し、巧妙に誘導しながら、生徒自身に逃げ道を遮断させ、自分の思う方向に生徒の力を出させようとしていた可能性がある会話である。そういう意味では、悪質である。
たぶん、たたかれることだけではこの生徒は死ななかったのかもしれない。逃げ道がふさがれどうしようもなくなったのではないかと思う。
この先生の誤りは、最初は部活動の本来の目的はわかっていたとは思うが、そのうち勝利を得ること自体が目的化してしまったこと。生徒の変容は感じていたが、基本的にそれまでの古い形での指導を続けようとしたことにある。またそういう指導を是とする雰囲気もあったのだろう。
そんな中で、自分の指導のあり方を客観的に見て、根本的に見直すような余裕も時間もなかったのだろうと思う。
運動系部活動の指導者、特にいわゆる「強いチーム」を作れる人は、のめりこむタイプが多いし、正直言ってあまり、というより全く人の言うことを聞かず、突き進む行動力と独特の視野の狭さを持つ人が多い。
そういう人だからこそ、強いチームを築けるわけだが、生徒の多くは別にプロになるわけでもないし、実業団に入る子も、ほんの一部である。多くの生徒は生涯、人生を豊かにするものの一つとして、その競技とつきあっていくということに思いをはせるべきではないか。 小中高までの普通の部活動は、技術の習得と仲間との協力、体力と精神力の向上、そして何よりも、その競技のおもしろさを感じさせて欲しいと思うのだが・・。
少なくとも、甲子園で優勝しても、そのインタビューで生徒が「これで明日から野球をしないですむと思うとうれしいです」などという言葉が出てしまうようでは、指導者としては失格だと思う。
※どこの高校でしたっけ?確かに言っていましたよね。
劣師は 体を使って、生徒の体を打つ
凡師は 体を使って、生徒の心を打つ
良師は 心を使って、生徒の心を打つ
今回の不幸な事件について書いていて、心に浮かんだ言葉です。
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