2015年10月28日水曜日

日本の仏教② 葬式に参列して思うこと

ご近所にご不幸があったので、通夜、葬式に参列してきました。荘厳な雰囲気の中、滞りなく行われていきました。

浄土真宗によるものである。

というか、私の地域では、浄土真宗によるものが大半である。

昔からの浄土真宗王国なのである。

しかし私は父親を若いうちに亡くしたため、家の代表として会葬の機会も多く、天台宗や浄土宗など他の宗派の葬儀も経験はしている。

そこで他宗派と比較すると、浄土真宗の葬式は、よく言えば簡素、悪く言えば素っ気ない感じがする。

2015年10月16日金曜日

日本経済の現状と将来  経済音痴が考えた日本経済


2010年7月記述  
長文の上に悪文です。
自分用のまとめです。(まとめにもなっていませんが)

国債発行残高が600兆円だの800兆円を超えたとか、これは経済クライシスの危険が高まっただの、大丈夫だからどんどん発行しろだの、国債に関しては正反対の意見があり、何が本当なのかわからない。大学で長年、経済学を研究していると称している大学教授の出番だと思うが、彼らは何をしているのであろうか。役立たずであることは間違いないようである。
私は、経済学はほとんど学んだことはないが、経済学者がこの体たらくなら、学んでな
い者が意見を言っても良さそうなので、国債についての一考察を書いておこう。

2015年10月13日火曜日

パピヨンという犬② 去勢をしなかった理由(オスの場合です)

犬の去勢の問題は、その是非は飼い主の考えや飼育環境から、それぞれが結論を出せばよいのだが、なかなか、悩ましいところである。

今の犬を飼う前には、去勢など思いもしなかった。
ところが獣医さんからは、結構、強くすすめられるし、ネットも当時は「するのは当然」という声が強かったように思う。 
ただ最近はデメリットもあるので、考えて判断しましょうという記事が増えているようだが。

結局、去勢はしませんでした。
 当時、去勢によるメリットは次のようなことが言われていた。 

①多頭飼いによる望まない妊娠の予防
②高齢犬になったときにかかりやすい疾患の予防
  前立腺肥大  肛門周囲線種及びそれにともなうガンの予防、睾丸腫ようなどの予防
③マーキングや排尿時の足上げをしない犬になること
④性格がおとなしくなる。噛まない等
⑤発情期に犬が苦しむ。ストレス予防
10歳になりました。まだまだ元気だよ

このうち、②~④に関しては、なんとも納得がいかなかった。

②は確かにそうだが、高齢になって前立腺や睾丸の癌になる確率など、どれほどのものであろう。可能性はあるだろうが、だからといって切除はどうなんでしょうね。

「あなたは将来、睾丸に癌ができる可能性があります。」

これは、全部の男性にあてはまる。だからといって、切除という話にはならない。人間の場合、子どもを望まない人はパイプカットはしても、睾丸切除する人はだれもいない。
 飼い犬は繁殖はしないからという話はあるが、だからといって切ってしまえばよいというのは乱暴な話である。

2015年10月11日日曜日

楽焼き 楽家歴代家元の茶碗展をみて

茶の湯の茶碗等、道具類は、部外者にはその価値がわかりにくいところがある。
朝鮮あたりで本当に飯茶碗に使っていたような物にも独特な価値を認める。そこに新しい美の創造は感じるのだが、仲間内だけで通じる美意識、何か閉ざされた美意識という偏見も抱いていた。

茶道の家元制度に対しても、伝統の継承は大切だが、一方、千利休の確立した所作を守っていくだけなら、新たな美の創造とは無縁であり、それなら芸術としては死んだ存在、いわゆる伝統芸能の類(これはこれで価値がありますが)になるだろう。そして「上手な集金システムが確立された組織」という感じも、抱いていた。

茶道の話になってしまいましたが、もう一つ書くと、極論ではありますが、もう今の時代、一碗をみんなで使って茶を飲むというのは、無理じゃないかと感じています。そこに意味があるのだという主張はわかるが、お湯でゆすぎ、布でひとぬぐいするだけでは、女の人の口紅の跡などは取りきれない時があります。基本的に不衛生ではあることは認めざるを得ません。
今は、強い感染力を持つ細菌、ウィルスも見られる時代である。潔癖主義のいきすぎた現代社会にも問題はあるが、これはやや時代に合わなくなっている一例ではないでしょうか。
しかしこういう伝統芸能化している分野は、伝統の継承こそが目的となっているので、変革はなかなか難しいのだろう。

本来の茶道の目的は、客人をどう迎えるかという点にあり、その日の天気、季節、客人の様子・気質にあわせる柔軟性、即応性がおもしろみでもあるのだが、そういう客人や時代に合わせる努力は、今の茶道界もされていることはわかっている。

しかし、その変化への対応と芸術性の両立という点から考えると、なかなか難しいようである。客人や時代への迎合ではない「もてなし」と、芸術性を両立させた千利休という天才は、そうそうは現れないということを感じさせる。


本題に戻ると、国宝の「卯花墻」も、写真で見て「閉ざされた美意識」のたぐいのものじゃないだろうかと思っていた。