2013年2月9日土曜日

ベートーベン 交響曲第5番「運命」  休符 の意味

   先日、フルトヴェングラーの第5の1楽章をあらためて聞いてみた。曲自体は、結構ねちっこい内容なのだが、情緒に流されず、強靭な精神性を感じさせる、最終的には乾燥した空気の中で、雷鳴が「カラッ」と轟いたような演奏をしていた。日本人にはなし得ない演奏だった。

 ところでこの曲の冒頭は、大変有名である。「ジャジャジャジャーーン」というフレーズは、この曲の大きな主題である。しかし、ご承知のように、このフレーズは8分休符から始まる。

「(ウッ)ジャジャジャジャーーン」なのである。このフレーズはすべて同じパターンである。

   ベートーベン自身は「運命はかく扉をたたく」といったそうだ。なるほど8分休符から始まるこの曲は、明らかに何者かが私の人生に影響を及ぼす情景をあらわしている。何かにドアをたたかれるという受け身的な自分を、この休符で表現しているのである。



 しかし日本人が考える運命や、運命にドアがたたかれるという感じは、西洋人が感じるそれとは大きな違いがある。

  キリスト教徒である西洋人にとって、明らかにこのドアをたたく主体は「神」である。

   キリスト教徒は、人間は神により造られたと考えている。そして人生の意義は、神が私を世につかわした意味を問うことであり、その使命がわかればそれを実践していくことにある。その意味で、私の人生をたたくものがあるとすれば、それは神以外にはありえない。
   言わば、第5における最初の音は、神の啓示そのもの、新しく神からの使命が与えられる瞬間なのである。

  しかし、彼らにとって神とは非常に父性的な神であり、やさしい存在ではない。与えられるのは新たな試練であり、辛い過酷なものである可能性も高い。そのためその瞬間は、不安がわき、緊張感もあるが、それを新しい啓示の始まりとして能動的にとらえていこうとする意志も働くのであろう。
 

  またベートーベンは幼小のころより父親にたたき起こされピアノをしこまれたというような父子関係がある。当然、神がドアをたたくイメージは、父親が、がんがんとドアをたたくイメージとも、重なっているのであろう。

  ベートーベンの第五の一楽章は、そんなゆれ動く心を表現してほしい。(冒頭の休符を感じさせるような指揮者はだれもいない。特にCDで聞くと、どれも「ジャジャジャジャーーン」としか聞こえない。これを映像で見るならともかく、聞くだけで表現するのは至難の業であろう)

 第5の運命というものは、日本人が感じる運命 ~諸行無常の響きあり、万物は流転する、その中にたたずむ私~ というような感覚やセンチメンタリズムとは縁遠い代物なのである。
   フルトヴェングラーは、明らかにこの曲をよく理解して(半分は無意識にだろうが)、振っていることがわかる。

 

追記 
「冒頭の休符を感じさせるような指揮者はだれもいない。」と書いたが、一人だけそれを意識して振ろうとした指揮者がいたと思っている。
フルトヴェングラーの指揮は、出だしがわかりにくいので有名である。特に、彼の第五は、どこで出ると良いのか謎という感じで、録音を聞いてもオーケストラの混乱した様子がうかがえる。何故、頭をそろえるような指揮をしないのか、いろいろ言われているが、どれもあまり腑に落ちる感じがしない。
私は、第一拍を勢いよく振り下ろすとどうしても=ドアを叩く立場に立ってしまうので、あくまでドアをたたかれる自分を感じるためには、そのような指揮が必要だったのではないかと感じている。










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