2013年2月9日土曜日

欧米人の価値観③ 自立した個

 自立した個という言葉がある。個の確立とか自立した個というのは,現在の日本の教育の一つの流れでもある。そして「自立した個という存在は好ましい」という価値観が現在の主流にもなっている。このような近代的な個という概念は,欧米諸国で成立したものであるが,ここでは,はたして自立した個ということが本当にありえるのかということを述べておきたい。

   普通,自立した個という言葉のイメージとしては,あくまで理性的,意志的な人間の事であり,他の影響や自分の弱い部分に流されることなく,内面の価値観や道徳律に従って、毅然としてやるべきことをおこなっていく人間というものであろう。このような人間像は,先に述べたように西洋的な価値観が色濃く反映しているとは言え,一人の人間としての理想的姿として,普遍的な要素をもつもので,その意味で現在の日本でも一般的に受け入れられやすいものである。しかし,実際問題としてこのような人間がどれほど存在し得るのであろう。


  西洋人はたびたび「自立した個」ということをいい、それに比べ日本人は精神的に自立していないという言い方をする。

   以前、書いたことの繰り返しにもなるが、道にお金が落ちていたら日本人は「だれかにみられている」と感じて警察に届ける。(日本人の普通の感覚はむしろ落とし主がこまっているだろうな ということで届けるのだが)これを恥の文化という。それに比べ西洋人は「これを届けないのは罪である」と道徳的に判断し届ける。これを「罪の文化」といい、道徳性に裏付けられた「罪の文化」を「恥の文化」よりすぐれているとした。

  しかし、その西洋人の罪意識はだれに対してのものかというと、明らかに「神」に対してのものである。いわば道におちていたお金を拾おうとした自分を「神」は必ず見ているぞという感覚が彼らにはあり、その意識からお金を警察に届けるのである。いわば、彼らは神に常に私の行動を見ているし、その審判から逃れることはできない。だから道徳的にふるまうという感覚なのであろう。いわば神があるので道徳も発生するのであり、彼らにとってそんな神がもしいないとすれば、道徳的にふるまう意味もなくなるのである。

  こう見ていくと、人の目を意識する日本人と(実際は違うと思うが)、神の目を意識する西洋人と、たいした違いがあるようには思えない。ただ神は一人一人の心の中の問題であるため、ちょっとめには、西洋人は自分で判断し行動し自立していると写るだけであろう。そして西洋人においてもその神がいなければニヒリズムに陥るということは、決して彼らも内面化した道徳律を持った自立した人間ではないのである。

   また自立という言葉自体、簡単に使う人が多いが、なかなか難しい内容を含んでいる。例えば、ある女性がバリバリ仕事をし、社会的にも活躍していたとする。この人を社会的に自立していないという人はいないであろう。しかしこういう人がなぜそこまで仕事に打込むかを分析していくと、幼少期に家庭環境が複雑で、特に父親に拒否的に育てられていることが結構多い。いわば彼女がそこまで仕事に打込むのは、「父親に認めてもらいたい」と云う強烈な思いが大人になってもあり、それが原動力になっている訳である。こういう女性は「自立」した人間といえるのだろうか。こういう分析もなしに、こういう人達を持ち上げる人が最近異常に多い。ホリエモンとか、田中なんとかという大臣も真の意味で自立した大人の人間ではないと私はにらんでいる。

   それなら真に自立した人間とは、どんな人間なのか、というかはたして真に自立した人間なんているのか、そして自立とはどういうことなのかということになってくる。自立という言葉を考えていくとかなり難しい内容を含んでいることがわかる。

  完全に何物からも自由で自立した個というものは、洋の東西を問わず、今も昔も存在しない。人間は、内的な道徳心に加え、外的な束縛(他人の目、神の目、法律)、他からの支え(親や友達の愛情や支え、心のつながり、地域社会の文化、交流)などで、かろうじて人間の形を保っているのである。昨今の殺伐とした若者の発生は、外的な束縛を切り、他からの支えもないような場合、人間は怪物のような形になっていく場合があることがわかる。

   20世紀に盛んに使われた自立とか自由とかいう概念は時代の中心的なキーワードとしての使命は終わりつつあるように思う。これからは、内的な心の強さや道徳心を育てながら、外的な他からの支えをどう作り、バランスを取っていくかを社会全体で考えていくことが、神なき時代の21世紀の大きな課題であるように思う。



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