2015年6月23日火曜日

日本の仏教① 法事に行って

法事に行ってきた。

例のようにお坊さんからお経をもらい、最後に説教を聞く。(ちなみに浄土真宗である)

何事もない日常の風景である。

お布施の額により、あげるお経がかわることは、特に何も思わない。
※仏説阿弥陀経て、あんなに短かったっけ。若いころに聞いたときには、もっと長かった気がするのは年のせいか。それとも長いバージョンと短いバージョンがあるのか?

しかし、その後のお説教を聴きながら、既成の仏教はこれで大丈夫なのかねとは、いつも思う。

2015年6月7日日曜日

鬱的な状態の人に「がんばれ」と言ってはいけない理由


一般的に、「がんばれ」という言葉は、鬱的な状態にある人には禁句といわれている。

私も50代前半に精神的にしんどい時があった。職場環境が毎年変わり、適応できなかったのだと思う。精神科の医者にはかからなかったが、行けば「鬱的状態」と診察されただろう。その時の経験から、覚えていることを書いておきたい。

鬱的状態にある人は、実はとても頑張ろうとしているのである。
鬱状態に陥った人は、表情もなく、行動も鈍く、判断も遅いというかできない時が多い。他の人から見れば「チッ いい年して何やってんだ」と言いたくなる様子である。
ところが、本人はもの凄く努力して職場に出勤していることが多い。
まず、朝、起きられない。「行かなくては」という思いから、体をベットから引き剥がすように起きる。朝食は食べる気もしないので、そのまま車のハンドルを握る。職場にたどり着き、自分の机に座る。ほとんどそこまでで力を使い果たす感じである。

本人の心境としては、池の縁ぎりぎりまで追い詰められ、つま先立ちしてこらえている状態である。筒一杯がんばり、しかし追い詰められている状態である。

そういう人に「もっと頑張らないとだめだろう。自分の立場はわかっているんだろうね」などとという言葉は、致命傷になる可能性が強い。

「頑張れ」という言葉がなぜダメなのかというと、そこに「お前は何をしているんだ」「だめなやつだなあ」という否定的なニュアンスをかぎ取るからである。こういうぎりぎりで、筒いっぱいの状態でこらえ頑張っている人間に、「それでもだめだ」というのは、とても残酷な言葉で、その軽いひと突きで、池の中に落下してしまうものである。

2015年6月3日水曜日

第29回 定期演奏会 終了

定演、無事終了
団員の皆様、お疲れ様でした。
最後には、まとまりがみられ、よい終わり方だったと思います。

曲目は、 ラヴェルのLa Valseとピアノ協奏曲、ベートーベンの第三でしたが、
私は実質的には4月からの参加でしたので、La Valseは、ボーイングをあわせるので精一杯で、悔いの残る演奏会ではありました。(ピアノ協奏曲は降り番、第三は以前やったことがあるのでなんとか)

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