日本人においては、「正直」「勤勉」であるということは、当たり前のことであり、小さい頃から特に躾けられる項目でもある。そのため他の国の人も同じようなものだろうと考えがちなのだが、実はそうではないということに近年気がつくようになった。
どの民族にも、道徳という概念はあり、勤勉、正直という項目も、望ましい守らなければいけない項目としてあるのだが、その徳目の優先順位には違いがある。 日本では「正直」「勤勉」は、まず第1位か2位の最上位にくる概念であるが、他の国では、他の項目が優先される場合がある。このことに長らく気がつかなかったのは、欧米諸国、特に新教の国々では、日本とは違う経過を取ってだが、たまたま「正直」「勤勉」は日本と同様に上位項目となっていたので、これは全世界共通となんとなく思ってしまっていたのである。中国や朝鮮、イスラム諸国では、また事情が違うのである。
昔は、日本人も中国朝鮮人もよく似た価値体系を持っているものと思っていた。ところが明らかになっている歴史的事実でさえ、勝手にねじ曲げ、自分たちに都合の良い歴史をこれこそ事実であると強弁することがわかって以来、この人達は日本人とは別の価値体系で動いている人たちだということがわかってきた。ではどこがどう違うのであろう。
(1) 「正直」に関する各国の価値観の違いについて
①日本人
日本人は「嘘」というものを生理的にと言っていいほど嫌う。そのかわり、かなり大きな犯罪を犯した人でも、正直に謝れば、もうそれ以上糾弾することもなく、案外あっけなく許してしまう。日本人にとって「正直」という価値観は「勤勉」などと並んで、最上位にくる価値観である。
これは一つは神道の感覚からきているものと考えられる。神道においては、嘘は、死体や血、罪と並んで一種の穢れであり、嘘をつく人は穢れた人間となる。言わば穢らわしいという感覚ですね。日本人にとっては、率直に正直に物を言うということが、自分が穢れない大変好ましいこととなる。そのため清濁あわせのみ、虚々実々の駆け引きが求められる政治家にも、「正直」「率直」であることが求められる。本来、政治家は率直に物を言ってはだめなのだが、日本に大政治家が育たないのは、こういう土壌があるからであろう。実際、日本人の正直さというのは世界的にも知られている。
またこの嘘をついてはいけないという価値観は、後で述べるように西洋人は神との関係性からきているが、日本人の場合は、神道の関係に加え、人との関係性からきていると考えられる。
日本では、古来から問題を解決するためには、話し合いを重視してきた。いわゆる「和を持って貴としとなし、さからうことなしを旨とせよ」というものである。「みんなが心を開き、何でも話し合えば、解決できないことはない」と続く。このような話し合いが成立するためには、誤魔化しをしないで、率直に意見をいうことが求められる。しかし率直といっても、他の人の気持ちを無視するような意見はだめというところが日本的であるが。
このようなところから、話し合いの障害となる嘘が嫌がられるようになったのだと思う。それではなぜ「話し合い至上主義」というべき「和」という価値観がでできたのかとなると、井沢元彦の著書でもひもといてもらうことになる。彼もそこまでは明確に掘り起こしているわけではないが。
このような経過で、日本では嘘を言うことは、嫌がられ、正直にものを言うことが常態化している。「実際何があったか正直に言いなさい」「嘘を言ってはいけないよ。ありのままに言いなさい」という言い方はよくするところだが、こういう態度を別の面から見ると、結果的に事実を事実として認識し、そこから議論を組み立てる態度につながっていく。これは科学的な物の見方や態度に通じるところがある。これに実験・観察という事実を確かめる方法論が加わると、西洋人が発展させた「科学」という学問になる。日本人には「科学」という学問は受け入れやすい下地があったのである。
②欧米人にとっての正直
アメリカ合衆国のもととなっている清教徒の教えの中に確か「勤勉であれ」「正直であれ」というのがあったはずである。他にもいくつかあったが、質素・倹約を旨としながら、正直に真面目に生きる清教徒の姿が思い浮かぶ。
彼らキリスト教徒(特にプロテスタントだが)が、勤勉・正直という価値観を持つのは、明らかに神との関係だと思う。「神はすべてを見通す」「神をごまかすことはできない」「神の前に正直であれ」真剣に信仰という事を考え、神との対話を行おうとするキリスト教徒にとって、神の目をごまかそうとする態度など、許せる事ではないであろう。嘘を罪とする価値観は、キリスト教の流れからきている。(ただし重要視されるのは、まず神との関係性における嘘であることには注意をする必要がある。人と人の間での嘘は、それも神様はお見通しという感覚があるので、してはいけないことではあるが、やや罪悪感は薄いようである。また特に新教に比べるとカトリックは直接神に結びつくという感じが弱いので、勤勉・正直という徳目も、新教に比べると今ひとつ鮮烈な感覚が乏しい感じがする。)
このような態度に加え、ルネッサンス期を経ることによって、ヨーロッパでは、一つの事象を本当に事実なのかを実験・観察という方法を通して検証し、法則や真理を導き出すという「科学」という学問が発達することになる。
(2) 「勤勉」に関するという各国の価値観の違いについて
勤勉という価値観も、実は一様のものではない。真面目に働くこと自体は、生きるということに直接結びつくことで、怠ける行為が嫌がられるのは世界共通だと思う。そのため勤勉ということは、どこでも奨励されることである。しかし、これはあくまで、「生活をするためには、真面目に働くことは必要であり、あたりまえである」ということからきている価値観であり、この価値観は「生活にこまらないほど財産を持っている人は、働く必要はない」という価値観につながる。「なんのために働くのか」の答は「金を得るため」「生活のため」というものであり、働くという行為は金を得るという行為とつながっている。そのため、中国やたぶん印度、アフリカの人たちは、金を十分持っている人は、何をそんなにあくせく働く必要があろうと思っている。
アヘン戦争当時、中国の役人が、イギリスの大使を訪問した時、イギリス大使が、その場の椅子がゆがんでいたので自分で直したところ、中国人は「このイギリス人は大使でない。小者である」と判断して、帰ってしまったという話がある。中国人にとって、金を持って大物であるということは、働かなくて良いと言うことであり、なるべくでっぷりと太り、細々としたことは従者に任せ、悠然としている者が大物と言うことになる。自分で体を動かさないことが、大物の証拠と言うことになる。
イギリス人が中国人にテニスを勧めたところ、「それほどおもしろいものなら、召使いにやらせましょう」といったのは有名である。
朝鮮でも、焼き肉屋などを始めた当時は、自分で店頭に立っているが、少しもうかるようになると、自分はなにもしなくなり、奥で本を読んでいるようになる。彼らにとっては、お金があるのに働く必要はないし、そうであれば、静かに本で読むのがカッコイイのである。いつまでも働いている人は、才覚のない無能な証拠と言うことになり、儒教国家では、職人が卑しめられるのはこういった事情があるのである。言わば、職人を使う側になることが、彼らの願いである。
ところが、何と西洋人と日本人だけは違うのである。日本人と西洋人に「なんのために働くのか」と聞くと、答は、「生活の糧を得るため」に加え、「働く行為そのものに価値がある」という答が出てくる。
①日本人の勤勉の価値観
日本人が勤労を尊ぶのは、道元の影響が強いと言われている。彼は、座禅することだけが修行ではない。食事を作ること、掃除をすること、食事を食べること等、人間の行為そのものが修行であり、仏への道なのだと教えている。この「働くという行為そのものが貴い」という考え方が、単に道元に発するものなのか、日本人の土着的なものの中にあったのかはわからないが、日本人に広く定着している。このため支配階級であった武士も、自ら機会があれば、土にまみれて働くことを厭わなかった。(熊本城建設時の加藤清正が殿様自ら、もっこをかずいたという。中朝では考えられないことであろう)「働くという行為そのものが修行なのだ。怠ることなく励め」という価値観は、金を儲けても働くことを止めず、さらに励むことにつながる。
道元の影響の他、もう一つ考えられるのは、稲作である。世界的に稲作をおこなっている地域は広いのだが、日本は稲作の北限である。他の地域と比べると、頭と体をよくつかわなければ、米がなることはない、東南アジアのように寝ていても(実際寝ていたらだめだが)米がなるところではない。ヨーロッパほどではないが、勤勉に働かなければ、生活が出来ないという事情があるのである。
②西洋人の勤勉の価値観
ヨーロッパに広がる平原は、氷河が溶けた後に残った岩盤地帯をベースにしている。そのため土壌は薄くかつ痩せた土地である。基本的には真面目に働かなければ生きていけない土地である。しかしその労働は辛く過酷なものであったようで、「なぜ神はこのような痩せこけた土地を私たちにお与えになったのだろう」という嘆きの言葉を何かの本で見た記憶がある。日本以上に勤勉に働かなければ飢え死にする可能性があるところなのである。
しかし一方、キリスト教では、「労働」は「神が人間に与えた罰」ととらえている。昔、人間は楽園(エデン)に住んで働くことはなかった。ところが神の禁忌に触れ、楽園を追放されることになり、以後人間は働かざるを得なくなったという聖書の伝承による。このようなキリスト教の持つ「労働観」は、労働の過酷さを強く感じていたヨーロッパ人には、素直に受け入れられたものと考えられる。
このような場合、例えば金を十分稼げば、もう働かなくて良いと考えるのか、それでも神の罰は受けなければならないので働くと考えるのかは、わからない。しかし、このような考え方からは、少なくとも労働は嫌々するものであって、積極的に取り組むという考え方は出てこないだろう。カトリックの人々には今もこういう考えが強い。しかし、このような労働観を転換する出来事がおきる。それはプロテスタントの出現である。
プロテスタントのカルビン派は、真面目に働くことは神の教えにかなうことであると主張する。これは、当時のキリスト教が、免罪符の発行などに見られるように、一部の聖職者、金持ちのものになっており、貧しいが真面目に働いていた者は、救われないのか そんなはずはないというような反発があったことや、確認はしていないがそのような一節が聖書にあるのかも知れないが、いわば、真面目に働くこと、労働という行為そのものを神はお喜びになるし、労働を通して救われるのであるという、労働という行為そのものに価値があるという労働観が打ち立てられることになる。そのためプロテスタントの価値観として勤勉という項目があがることになる。一方、カトリック系の国には従来の労働観が色濃く残ることになる。
ただ、ヨーロッパ人には、程度の違いこそあれ、この二つの相反する価値観が両方、一人の人間の中に混在している感じがする。欧米人が日本人が残業までして真面目に働く姿を見て、一種の差別的な言辞をはく場合があるが、これは、人種差別的な感覚と共に、労働は懲罰であるという感覚が抜けないからであろう。言わば彼らにとっては、すべての労働は刑務所で行われる懲罰的な労役でしかなく、それにいきいきと取り組むのはおかしい、理解できないと考えるためである。
しかし、労働は神の教えとする労働観は、新教系(イギリス ドイツ アメリカなど)の国々に大きな影響を与え、経済発展の原動力ともなっていく。
(ここら辺の経過はマックス・ウェーバーが有名ですね)
このように、たまたまであるが、正直・勤勉という徳目に関しては、日本人と西洋人はそれを価値体系の上位に置くという点で一致していたのである。科学の受容そして経済発展は、両方がこのような価値観を持っていたことが大きい要因になっている。お金をある程度持ったら、働くことを止めてしまう国の経済は、ある程度のところで停滞してしまう。事実を尊重し、そこから議論を組み立てない国に、科学は定着しない。アジアでは日本だけが、経済発展を続けていったのは、理由があるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿