2016年2月1日月曜日
武道最強論議 実戦ってなんだろう?
よく「この武道は実戦的ではない」とか、「実戦では使えない」とかいう言葉が使われる。
柔道、伝統空手、フルコン空手、ボクシング、総合格闘技、少林寺拳法、合気道までまきこんで、最強論議は、何十年たっても尽きないし、結論も出ないようである。
しかし「実戦」とはいったいどういう状況なのであろう。
例えば
①絡まれて胸ぐらをつかまれ脅される。もしくは殴られる。
②肩が触れた、触れないなどから、いきなり殴られる。
③数人に囲まれ、金銭を出すよう脅された。
④自動車などの運転をめぐって、トラブルになり、相手が降りてきた。
⑤決闘だという話になり、時間無制限、金的、噛みつき、目突き等何でもアリ。
等々でしょうか。
2016年1月22日金曜日
合気道 最強伝説と健康体操説の狭間で
合気道は、謎の多い武道である。いまだに最強伝説から、ただの踊り、健康体操説まである。評価の定まらない武道なのである。
私もこれまでに何度か合気道を始めたいと思った。学生時代には、いくつかの道場を見学したし、その後も、ネットで道場を検索したりホームページをのぞいて見たりしていたのだが、結局始めることはなかった。
私もこれまでに何度か合気道を始めたいと思った。学生時代には、いくつかの道場を見学したし、その後も、ネットで道場を検索したりホームページをのぞいて見たりしていたのだが、結局始めることはなかった。
2013年1月26日土曜日
ボクシングに想う
ボクシングは、攻撃を手に限定し、成り立っているスポーツである。顔面とボディへの攻撃が主となるため、特にボディは鍛え上げ、少々の攻撃を受けても耐えられるようする。腹を打たれダウンするのは、明らかに素人でしかない(まあそれでもタイミングが合うと倒れてしまうが)。顔面は鍛えようがないので、様々な防御方法が発達することとなる。そのような様々な防御とパンチを組み合わせ、ボクシングは成り立っている。四回戦ボーイなら、ただのはったりと勢いで倒すことも出来る。しかしチャンピオンになるには、地味な日々のトレーニングの積み重ね、そして相手を分析し攻防を組み立てる冷静な目、そして根性がなければ、勝利を得ることはない。ボクシングはいわば獣性と科学の融合なのである。おもしろさもそこにある。
これらの要素を一人の人間が備えていることは少ないので、よきトレーナーの存在が必修となる。
これらの要素を一人の人間が備えていることは少ないので、よきトレーナーの存在が必修となる。
顔面への攻撃 練習の難しさ
今のK1等を見ていても、KOのほとんどは顔面へのパンチである。顔面への攻撃は、直接脳を揺らすので、立っていられなくなる有効な技であり、格闘技の場合、どうしても練習する必要がある項目である。しかし、練習の仕方が難しい。各種目別の練習方法は次のようである。
伝統空手
顔面のパンチに関しては直接当てないで、直前で止めるようにする。いわゆる寸止めである。これに関しては、普段寸止めで練習していて、いざという時に、浸透力のあるパンチを当てることが出来るのかという批判がある。また案外、止められなくて顔面骨折や眼球を損傷して視力をなくすなどの大きな事故が多いのも事実である。
極真空手
顔面パンチそのものを禁止する。これにともなう弊害は以前記述した通りである
防具空手
伝統空手や極真空手系の一部は、どうしてもあてないとわからないことがあるということで、頭部に防具をかぶって、実際当てるようにしている。この欠点は、衝撃を完全には吸収できないので、顔面そのものに傷がつくことは少ないが、頸椎や脳そのものに障害が残る可能性があることと、防具そのものが息苦しいことであろう。決して、安全ではないのである。
少林寺拳法
昭和50年ごろまでは、グローブと胴を着用して、顔面も含めがんがん殴り合うというもの。今の少林寺拳法には見られない野蛮さである。当然、脳への衝撃が大きいので、死者が出たのは前述したが、後遺症が残ることも多く見られたようである。また胴に蹴りをもらうとバーンと大きな音がして、一本としてとられてしまうので、胴をカバーしながら(顔面ではない!) 前に出るということになる。これは格闘技としては、あり得ないフォームである。
伝統空手
顔面のパンチに関しては直接当てないで、直前で止めるようにする。いわゆる寸止めである。これに関しては、普段寸止めで練習していて、いざという時に、浸透力のあるパンチを当てることが出来るのかという批判がある。また案外、止められなくて顔面骨折や眼球を損傷して視力をなくすなどの大きな事故が多いのも事実である。
極真空手
顔面パンチそのものを禁止する。これにともなう弊害は以前記述した通りである
防具空手
伝統空手や極真空手系の一部は、どうしてもあてないとわからないことがあるということで、頭部に防具をかぶって、実際当てるようにしている。この欠点は、衝撃を完全には吸収できないので、顔面そのものに傷がつくことは少ないが、頸椎や脳そのものに障害が残る可能性があることと、防具そのものが息苦しいことであろう。決して、安全ではないのである。
少林寺拳法
昭和50年ごろまでは、グローブと胴を着用して、顔面も含めがんがん殴り合うというもの。今の少林寺拳法には見られない野蛮さである。当然、脳への衝撃が大きいので、死者が出たのは前述したが、後遺症が残ることも多く見られたようである。また胴に蹴りをもらうとバーンと大きな音がして、一本としてとられてしまうので、胴をカバーしながら(顔面ではない!) 前に出るということになる。これは格闘技としては、あり得ないフォームである。
2012年7月5日木曜日
武道と人格 その二
若い時は、武道の黒帯というと、何か仰ぎ見るような感じで、人格的にも尊敬の対象であった。それが、年を取るにつれて、そういう過剰な思いは薄れていった。今は「武道をやることと人格完成はほとんど関係がない」「武道を続けて人格の完成が進んだ人は、他のことをしていても人格を向上させられたであろう」と思っている。
ある論文を見ていたら「『サッカーをしているとルールの大切さを理解し、よき社会人となる』という言葉があるが、現実のスポーツは決してそうではない。結局、スポーツでルールやフェアプレーの大切さ協調するのは、それを守らなければ競技が成立しなくなるからである。」という一文があった。確かにそうなのだろうと思う。
武道でもスポーツでも、それ自体に人格完成の要素があるわけではない。ただ漫然と競技をやって身につくことは、バスケットなら籠に上手にボールを入れる技術であり、剣道なら、相手の頭や胴を早く竹の棒で叩く技術でしかない。
武道は、剣道にせよ柔道にせよ一枚皮を剥いでしまえば、獣然とした殺伐とした命のやりとりが本質である。特に武道において人格の完成が強く言われるのは、それを強調しないと、ただの殺し合いになってしまうからだろう。ただそういう厳しい競技だからこそ、相手への思いやりや高い人格に到達する可能性というものが、スポーツよりも高いという面もあるが、反面、武道を長年やっていて獣のような人物がいても不思議ではない。
結局、指導者が武道やスポーツという素材を使って、どういう考えで指導をするかが重要になってくるのだが、特に子供への指導という面では、本当にその指導が子供のためになっているのかと言わざるを得ない場面が多すぎるように思う。
ある論文を見ていたら「『サッカーをしているとルールの大切さを理解し、よき社会人となる』という言葉があるが、現実のスポーツは決してそうではない。結局、スポーツでルールやフェアプレーの大切さ協調するのは、それを守らなければ競技が成立しなくなるからである。」という一文があった。確かにそうなのだろうと思う。
武道でもスポーツでも、それ自体に人格完成の要素があるわけではない。ただ漫然と競技をやって身につくことは、バスケットなら籠に上手にボールを入れる技術であり、剣道なら、相手の頭や胴を早く竹の棒で叩く技術でしかない。
武道は、剣道にせよ柔道にせよ一枚皮を剥いでしまえば、獣然とした殺伐とした命のやりとりが本質である。特に武道において人格の完成が強く言われるのは、それを強調しないと、ただの殺し合いになってしまうからだろう。ただそういう厳しい競技だからこそ、相手への思いやりや高い人格に到達する可能性というものが、スポーツよりも高いという面もあるが、反面、武道を長年やっていて獣のような人物がいても不思議ではない。
結局、指導者が武道やスポーツという素材を使って、どういう考えで指導をするかが重要になってくるのだが、特に子供への指導という面では、本当にその指導が子供のためになっているのかと言わざるを得ない場面が多すぎるように思う。
2012年7月3日火曜日
武道と人格 その一
職業的な武道家のなかには、人格的な欠点があるとしか思えない人間がいるのは事実である。武道をやろうという人間は、最初からある種の劣等感が強かったり、過激なまでの攻撃性を持っていたりする事が多く、一種の人格的な偏りが武道を目ざすきっかけとなっているためであろう。
武道の効果とはどういうものがあるのであろう。
例えば、自信が持てるようになるとよく言われる。確かに、人前に出る時に何となくおどおどしていた人間は、フルコンタクト系をやりこむと、印象がかわってくることがある。フルコンタクトでは組手で常に人と近距離で対して殴る蹴るという行為を繰り返すので、人に対することに慣れてくる。そのため表面的には、社会の中で人と対しても以前のようにおどおどした感じはなくなるのは事実である。これだけでも武道の効果はあると言える。
しかし、人が人と接するのは、別に常に殴り合いをするため接するわけではない。
武道の効果とはどういうものがあるのであろう。
例えば、自信が持てるようになるとよく言われる。確かに、人前に出る時に何となくおどおどしていた人間は、フルコンタクト系をやりこむと、印象がかわってくることがある。フルコンタクトでは組手で常に人と近距離で対して殴る蹴るという行為を繰り返すので、人に対することに慣れてくる。そのため表面的には、社会の中で人と対しても以前のようにおどおどした感じはなくなるのは事実である。これだけでも武道の効果はあると言える。
しかし、人が人と接するのは、別に常に殴り合いをするため接するわけではない。
極真空手 その強さと弱点
若い時に行った極真の本部道場の熱気は、今も覚えている。そして、あの重いサンドバックがほとんど垂直にグイッと持ち上がる凄まじい回し蹴りや野性味あふれる(というか野蛮な)組み手、強くなりたいという根本的な欲望にストレートに答えてくれる物を、当時の極真は持っていた。少林寺の高段者であっても、あの回し蹴り一発で終わりだろうなという感じは今も持っている。
当時から、極真は弱点があると言われていた。フルコンタクトの宿命で、顔面へのパンチが危険であるという理由で、禁止されていたのである。極真からキックボクシングに転向すると、最後までこのことがネックになる。共通して顔面の防御が甘く、また間合いの取り方がわからないのである。
当時から、極真は弱点があると言われていた。フルコンタクトの宿命で、顔面へのパンチが危険であるという理由で、禁止されていたのである。極真からキックボクシングに転向すると、最後までこのことがネックになる。共通して顔面の防御が甘く、また間合いの取り方がわからないのである。
少林寺拳法に想う
※今から約30年前に、ワーブロで書いた文章です。それでも現在でも通じる部分もあるように感じますので、あげてみましたたのですが、どうでしょうか。
(1) 少林寺拳法と武道
少林寺拳法は、宗道臣が戦後立ち上げた武道である。いわゆる新興武道であり、このような新しい武道は今に至るまで雨後の竹の子のごとく出てきているわけだが、少林寺拳法は、柔道、剣道、相撲道、弓道、合気道、銃剣道の伝統ある武道に並び日本の武道の一員と正式に認められている。剣道や弓道、相撲の伝統の古さはいうまでもないが、比較的新しい柔道、合気道、銃剣道でも明治に確立しており、その母体となった柔術、合気術などは古い伝統を誇る。純粋に戦後生まれの武道は少林寺拳法だけである。これは凄いことである。宗道臣の政治的な力を含めた人間性の大きさとも言えるが、多くの人に広まり、その勢力を無視できなかったことや、その成立の精神性に多くの人を納得させるものがあったからであろう。
(2) 少林寺拳法の特色
①日本の武道であること
名前から言うと、中国の武術との関連がありそうで、宗道臣自身も、そのことを否定せず、著書の中では、むしろ積極的に中国との関連を書いてある。しかし、技術的には中国との関連はほとんどないのではないか。
(1) 少林寺拳法と武道
少林寺拳法は、宗道臣が戦後立ち上げた武道である。いわゆる新興武道であり、このような新しい武道は今に至るまで雨後の竹の子のごとく出てきているわけだが、少林寺拳法は、柔道、剣道、相撲道、弓道、合気道、銃剣道の伝統ある武道に並び日本の武道の一員と正式に認められている。剣道や弓道、相撲の伝統の古さはいうまでもないが、比較的新しい柔道、合気道、銃剣道でも明治に確立しており、その母体となった柔術、合気術などは古い伝統を誇る。純粋に戦後生まれの武道は少林寺拳法だけである。これは凄いことである。宗道臣の政治的な力を含めた人間性の大きさとも言えるが、多くの人に広まり、その勢力を無視できなかったことや、その成立の精神性に多くの人を納得させるものがあったからであろう。
(2) 少林寺拳法の特色
①日本の武道であること
名前から言うと、中国の武術との関連がありそうで、宗道臣自身も、そのことを否定せず、著書の中では、むしろ積極的に中国との関連を書いてある。しかし、技術的には中国との関連はほとんどないのではないか。
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