2013年1月26日土曜日

ボクシングに想う

   ボクシングは、攻撃を手に限定し、成り立っているスポーツである。顔面とボディへの攻撃が主となるため、特にボディは鍛え上げ、少々の攻撃を受けても耐えられるようする。腹を打たれダウンするのは、明らかに素人でしかない(まあそれでもタイミングが合うと倒れてしまうが)。顔面は鍛えようがないので、様々な防御方法が発達することとなる。そのような様々な防御とパンチを組み合わせ、ボクシングは成り立っている。四回戦ボーイなら、ただのはったりと勢いで倒すことも出来る。しかしチャンピオンになるには、地味な日々のトレーニングの積み重ね、そして相手を分析し攻防を組み立てる冷静な目、そして根性がなければ、勝利を得ることはない。ボクシングはいわば獣性と科学の融合なのである。おもしろさもそこにある。

   これらの要素を一人の人間が備えていることは少ないので、よきトレーナーの存在が必修となる。


   よきトレーナーと素直な才能のある選手の組み合わせができると、かなりのところまでいける。辰吉は才能のある選手だったが、いいトレーナーがいなかったのか、言うことを聞かなかったのか、結局、最後まで、きちんとした防御技術を身につけることがなかった。若い時は、天性の反射神経でよけることが出来ていたが、スピードが落ちると没落は早かった。いい選手だったが、全盛期は短かった。

   同じことはマイク・タイソンにも言える。折角カス・ダマトによいボクシングを習ったのに、そこから離れてしまったら、技術面はもちろん精神的にも崩れてしまった。

 若い時には、ボクシングの中継はよく見ていたし、多くの人が熱中もしていた。今でも中継があると見る。昔と同じように若者たちは懸命に戦っているが、何となく「体育的」「運動的」な感じが強い。なにか「暗い情念」のようなものが消えているのは間違いないだろう。またドラマティックに試合を仕立てようとテレビがつまらない仕掛けを行うのもうっとおしい。

 サンディ・サドラーが言っているように、ボクシングは、「貧しい若者が相手を失神するまで殴り合うのを、金持ちが周りで見ている非道いショーなのだ」というところに本質がある。また個人が競技としておこなうにはリスクが大きすぎるように思う。ボクシングの試合に熱狂することのなくなっている日本は、それなりによい社会なのかもしれない。

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