2013年6月7日金曜日

科学という学問①  社会科学の曖昧さ

大学時代に、社会科学系の講義を受けていて「これは、学問という名にあたいするものなのか」とかなり真剣に悩んだことがある。自然科学の持つ厳密さに比べ、経済学や社会学のなんと曖昧なことか。同じ統計資料を使いながらも、真反対の結論を導き出せるものを学問と呼べるのだろうかと思ったのである。

古代ギリシャ人は「真に学問といえるのは、神学 哲学 数学しかない」と言っているが確かにその通りなのだろう。

実は、社会科学系の学問が導き出せることは、「正解」ではない。もちろん「結論」でもない。AはBより、より良い可能性が高いという「見解」が出てくるだけである。そのため別の視点から見るとBの方がよいという見解がすぐに出されることとなる。

その曖昧さに耐え、さらに情報を精査し、見解の精度を高めていく作業そのものの中に社会科学系の本質があり、また存在意義がある

・・・と理解はしているのだが、昨今の「アベノミクス」や「消費税」の是非について、識者が口角泡を飛ばして議論しているのを見ると、いったい大学で何十年も研究してきたのはなんだったのだ、消費税を上げた方がよいのか、上げない方がよいのかぐらいは、結論を出せよと皮肉を言いたくなる。

経済評論家とか大学の教授という連中が、TVで、経済情勢について分析してみせたことが、何年か後に間違っていたことわかっても、平然と、次の問題について解説をしているのを見ると、人間的な薄っぺらさというか自分の職業に対する倫理観のなさを感じることがある。

社会科学系の学問が持つ本質的な曖昧さにあぐらをかき、自分の言動に責任をとるという世界に生きていないのである。

先ほど書いたように、曖昧さに耐えながらも、さらに情報を精査し、見解の精度を高めていく作業を常に行い、本質に迫るという真摯な態度と、自分の出した見解に誠実さのない人は、学者の名には値しない。

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