2013年4月29日月曜日

戦前の家庭教育① そんなに昔はよかったのか

あるブログに次のような言葉があった。

「アメリカ文化の根底にはキリスト教があります。キリスト教の黄金律は『自分にして欲しいことは人にもしなさい』です。
 それに対し日本の文化には儒教、仏教、神道があります。日本の教えは『自分にして欲しくないことは人にしてはいけません』です。これから始まって日本では『人に迷惑をかけてはいけない』ことになり、消極的になって『何もしない方が良い」ことになり、また』人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない』という風潮が生まれてくるのかもしれません」・・・・。

 
  儒教、仏教、神道と「自分にして欲しくないことは人にしてはいけません」との関係はよくわからない。しかし、実際、私はこのような言葉を具体的に親から言われたないものの、社会的風潮として、「人に迷惑をかけてはいけない」と子どもを諭す雰囲気は確かにあった。

そして非行少年は、必ずといっていいほど次のように言った。  

    「だれにも迷惑はかけてない」

しかし、これは日本の子育ての伝統ではなく、戦後に生じた傾向である。

2013年4月22日月曜日

おくりびと 映画の中のチェロ


   先日、邦画「おくりびと」をあらためてDVDでみた。以下の文章は、以前みた時に書いた感想である。 

   邦画「おくりびと」をみた。主役の俳優はプロオケのチェロ奏者という設定で出演している。
    今まで、この種の設定で、まともなものは見たことがない。弦楽器にせよピアニストにせよ「演じるにせよもう少しまともにやれよ」と言いたくなるものばかりであった。
    その点、洋画は、こういう場合、何ヶ月かは特訓をするらしく、それなりに見られる物に仕上げてくる。こういう面からも邦画はチャチというイメージをずっと抱いていたのだが、この映画に関しては違った。

六十にして惑う

徒然cello日記として始めたのだが、肝心のチェロについてはさっぱり書かなくなってしまった。

長年続けてきた交響楽団を休団したのは、何より目が衰え、楽譜がはっきり見えなくなったことがあるのだが、何か心に張りがなくなり、何をするにも億劫になってきたことが大きい。

そういう気分に加え、たぶん定年ということが現実的に感じられる年齢になってきたことから、来し方を振り返り、今後のことを考えてしまうことがある。

四十而不惑、 

五十而知天命、 
六十而耳順  

孔子は本当に思って言ったとすると、彼は実に人間的に心身とも逞しい人だったのではないかと感じている。(実際、孔子は身長180㎝を超える大男だったのだが)
自分だったら断定的に人生をこういうふうに言い切れないからである。

心身の衰えを感じ、子どもが手を離れ定年を迎える六十歳前後は、もう一度、自分の生き方を考える時期となっている。

孔子の時代と比べ、はるかに寿命がのび、人生のサイクル自体が変わっている現在は、六十にして、今一度惑うのである。

2013年4月19日金曜日

秀頼は秀吉の実子だったのか


    秀吉と淀君の間には、二人、子どもが生まれている。一人目は鶴松、二人目が秀頼である。豊臣秀吉は、多くの側室を抱え、女好きであったことは有名である。言わば精力的な男なのである。普通の男子であれば、10人以上の子どもがいても不思議はない状態である。 しかし、淀君以外には、全く子どもが生まれていない。それで、既に秀吉生前の頃より、秀頼は秀吉の実子ではないということが言われていたようである。

※こう書くと必ず長浜時代に一男一女がいたという話が出てくるのだが、これも実子説、養子説両論があり、確定された話ではない。実子が生まれたのであれば、同時代の文書に何か記述があるのではないかと思う(「木下殿に子どもがお生まれになり、喜んでおられる」とか)が、全くみあたらないようである。また母親の名前もはっきりとしない。養子であるなら、政治的な感覚の鋭い秀吉のことなので、それなりのところからもらい、そのことに関する伝承や記述がどこかに残るのではないかと思うが、それもない。
もっとも同時代に生きた柴田勝家でさえ、勝里、勝忠という実子がいたようだ程度しか伝わっていないので、この時代はそんなものだったのかもしれないが、一方、前田利家の実子に関しては、生年、母親共にはっきりと記録に残されている。滅び去った者は記録も残せないということだが、秀吉は太閤になってからでも自分の記録を整備できる時間はあったのだから、もっと長浜時代のことがはっきりしても良いようには思う。結局、子どもはいなかった、もしくは子どもは生まれたのだが、表に出せないような事情があったのかも知れないという感じがする。
またおねねと結婚したのが1561年、長浜に城を築いたのが1575年で、25歳~39歳までの最も生殖活動が盛んな時期に、子どもができていないのだから、やはり無精子症もしくはそれに近い体質だったのは間違いないのではないだろうか。



   現在でも、文献を詳細に分析して、様々な説が述べられているが、厳密には、淀君自身しかわからないことであり、DNA検査でもしないと、現在でもわからない話ではある。(秀吉は火葬ではなかったと記憶している。秀頼は灰になってしまったようだが、国松や天秀尼の遺骸はないんでしょうかね。)そのため、どんなに詳細に検証をしても、結局、憶測にしかならないのですが、私の印象を書いておきます。

    鶴松に関しては、秀吉はその誕生を大変喜び、かわいがっている。自分の実子でないかもしれないという様子は、ほとんど、うかがえない。たぶん本当に子供ができたと思っていたのだろう。
  しかし、秀吉の思いとは別に、鶴松は秀吉の子では無い可能性は高いだろう。たぶん無精子症もしくはそれに近い秀吉に子供が授かる可能性は限りなく低い。しかし、それでも鶴松は秀吉の実子である可能性は0ではない。

2013年4月18日木曜日

正直・勤勉という価値観  ~日本・欧米・中朝~

  日本人においては、「正直」「勤勉」であるということは、当たり前のことであり、小さい頃から特に躾けられる項目でもある。そのため他の国の人も同じようなものだろうと考えがちなのだが、実はそうではないということに近年気がつくようになった。


  どの民族にも、道徳という概念はあり、勤勉、正直という項目も、望ましい守らなければいけない項目としてあるのだが、その徳目の優先順位には違いがある。   日本では「正直」「勤勉」は、まず第1位か2位の最上位にくる概念であるが、他の国では、他の項目が優先される場合がある。このことに長らく気がつかなかったのは、欧米諸国、特に新教の国々では、日本とは違う経過を取ってだが、たまたま「正直」「勤勉」は日本と同様に上位項目となっていたので、これは全世界共通となんとなく思ってしまっていたのである。中国や朝鮮、イスラム諸国では、また事情が違うのである。
 昔は、日本人も中国朝鮮人もよく似た価値体系を持っているものと思っていた。ところが明らかになっている歴史的事実でさえ、勝手にねじ曲げ、自分たちに都合の良い歴史をこれこそ事実であると強弁することがわかって以来、この人達は日本人とは別の価値体系で動いている人たちだということがわかってきた。ではどこがどう違うのであろう。

戦後政治の悲劇 まともな野党がないということ

   日本政治の悲劇は、まともな野党が育たなかったことだと思っている。1980年代までは、自民党に変わり得る野党と言えば、社会党しか存在しなかった。社会党は、複雑な性格を持った政党だったが、常に左派の力が強く、革命路線こそ捨てたと言ってはいたが、社会主義を標榜することはやめなかった政党である。国民からすると資本主義でなければ社会主義による政治・経済という選択しかなかったこととなる。こういう国は珍しいのではないか。アメリカやイギリスは二大政党政治であるが、革新系であっても社会民主主義路線であって、結局は資本主義という国家体制内での選択である。
    日本という国には、すでに戦前の段階から、共産主義系の影響と浸透が強かったことがわかるが、国民としては、いかに自民党に飽きが来たからといって、まさか社会党に政権を任すわけにも行かず、結局鬱々とした気分を持ちながらも、自民党を支持するしかなかったわけである。自民党政権が長期に渡った一つの理由である。