2013年2月8日金曜日

欧米人の価値観② 罪の文化と恥の文化


   ドストエフスキーが、「神が存在しないとすれば、なんでもやっていいじゃないか」というような意味を言っている。一方、日本にきた宣教師が「日本人は神を信じていないのに道徳心が存在するようにみえるのは不思議だ」ということを言ったという話もある。 

   西洋人はこんなことをたびたび言う(らしい)。道端にお金が落ちていた時、もし人が見ていたら、日本人は拾わない(自分のものにしないという意味ですね)だろう。それは人の目を気にして、そういう行為をすると人に笑われると恥ずかしいという感覚があるからだ。そのかわり人がいなければ黙って拾って自分のものにしてしまうだろう。これを「恥の文化」という。我々西洋人は、人が見ていなくても、自分の物にはしない。そういう行為は罪と考えるからだ。言わば道徳律が内面化している。だから「恥の文化」より「罪の文化」のほうが優れている。


    しかし、西洋人の行為は結局、ドストエフスキーなどの言葉から考えると、「神の目」を意識の行為だということがわかる。そのため、神の存在が無ければ、道徳もないじゃないかという発言になるのである。


   日本人から言わせれば、人が見ているから云々も神が見ているから云々も大した違いがあるわけではなく、他からの視点を意識しての行為に違いはあるまいということになる。日本人が人が見ていなければ、なんでもやるだろうという考え方とドストエフスキーの神がいなければ何でもできるという言い方は考え方としては同じである。結局、西洋人の倫理観、道徳、価値観は神との関係において成立しているものでしかないということがよくわかるし、西洋人の危うさもここにある。

   彼らはキリスト教という枠の中で、様々な思想(自由とか平等という概念もそうですね)や価値観を育ててきた歴史がある。キリスト教から切り離された思想など、彼らには考えられない。

    そのためニーチェによる神の否定、実存主義及び実存主義とは兄弟の関係にある社会主義の出現を経て、21世紀初頭の現在、西洋人は不安定な状況におかれているように思う。倫理観など壊れてしまったような若者が出現する一方、新しい魅力的と本人は感じているのであろうカルトに逃げ込む人々、旧来の教えから一歩も踏み込むことを拒むかのような原理主義者の出現は、今までのキリスト教の枠ではおさまらなくなってしまった、西洋人の不安定な精神状況を示すものととらえることができる。たぶん彼らはこれからも不安定な状況の中を漂い続けるだろうと思う。

   一つ付け加えて置くと、日本人は人が見ていなければなんでもするだろうという西洋人の言い方は、間違いである。多分、多くの日本人は、人が見ていなくてもお金を自分の物にしてしまうことはあまりない。交番に届けたり、忘れた人がそのうち戻るだろうと思いそのままにしておくことが多い。これは、「落とした人がこまっているだろう」という思いがあるからだが、いわば自然のうちに身につけた他の人に対する思いやりが、日本人にはある。
   西洋人のヒューマニズムという考え方とは別に、より自然な形で人間中心主義のようなものが日本人の根底にはあるように思う。

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