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2019年10月10日木曜日

カッチーニ「アヴェマリア」に祈りはあるのか

ひさしぶりに、チェロの記事です。タイトルが徒然cello日記なのに、違うことばかり書いてあるので、反省を含め・・。


最近、カッチーニ作(ほんとは、20世紀の人 ソ連の作曲家 ヴァヴィロフ 1925年~1973年) 「アヴェマリア」を弾いてみた。
オリジナルは何調なのでしょう? いろいろな調で弾かれている曲である。ヴォーカリーズのように、A線の高い位置でずーっと戻ってこないのも嫌なので、響きより、弾きやすさ優先で楽譜を選んだというか、聞いて覚えた。

ネットでは、この曲は絶賛の嵐という感じだが、そうなんでしょうか。三大「アヴェマリア」に挙げられているようだが、いやいや・・・。

2013年2月9日土曜日

ベートーベン 交響曲第5番「運命」  休符 の意味

   先日、フルトヴェングラーの第5の1楽章をあらためて聞いてみた。曲自体は、結構ねちっこい内容なのだが、情緒に流されず、強靭な精神性を感じさせる、最終的には乾燥した空気の中で、雷鳴が「カラッ」と轟いたような演奏をしていた。日本人にはなし得ない演奏だった。

 ところでこの曲の冒頭は、大変有名である。「ジャジャジャジャーーン」というフレーズは、この曲の大きな主題である。しかし、ご承知のように、このフレーズは8分休符から始まる。

「(ウッ)ジャジャジャジャーーン」なのである。このフレーズはすべて同じパターンである。

   ベートーベン自身は「運命はかく扉をたたく」といったそうだ。なるほど8分休符から始まるこの曲は、明らかに何者かが私の人生に影響を及ぼす情景をあらわしている。何かにドアをたたかれるという受け身的な自分を、この休符で表現しているのである。


2011年6月1日水曜日

ショスタコーヴィチ  ヴァイオリン協奏曲 2

 定演まで二週間という時期にしては、何ともテンションが上がってこない。原因の一つは、例のショスタコである。理解不能という感じは今もある。大抵の曲は、弾いていると快であれ不快であれ、何らかの感情のリアクションがあるのが普通だが、この曲に関しては何もおこらない。言わば理解不能なのである。
 ただ最近、これは大変「陰鬱な」曲なのではないかという感じがするようになった。それも何か救いようのない閉塞感を伴う暗さ、そしてそれに対するイライラとした感じである。
 多分だが、この曲ができたのは、1948年なので、例のスターリンの時代である。スターリンと聞くと粛清、収容所、秘密警察、密告、盗聴などの言葉がすぐに連想される。この曲の陰鬱さは、あのどうしようもない時代の空気を反映しているとするなら、少し理解もできる。
 ようするに、この曲には、あのソ連の暗黒の時代の「におい」がするのである。あの時代の臭いのするものに、なじめないのも当然とも言えよう。ただ、曲想が現代的だと言うことだけが理由ではないのである。
    一つの芸術ではあると思うが、積極的に取り組みたいとも思わない曲 になりそうである。

2011年5月15日日曜日

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲

  今年の定演の演奏曲目は、シベリウスの二番とショスタコのヴァイオリン協奏曲である。何やら寒いところの作曲家を集めたという感じだが、シベリウスは良いとして、ショスタコの協奏曲は、以前、最初だけ聞いて「なんだこりゃ」という感じを持ち、何となく理解不能という印象しかなかった曲である。昨年楽譜をもらった時に、あらためてインターネットで調べ、聞いていたら、途中で寝てしまった。
  しかし、理解不能だった曲も実際弾いていくと、作曲家の内面のようなものがわかり、最後には感動するということが、結構ある。最近では、シューマンがそうであった。実はそれまで、シューマンはあまり好きでなかったのだが交響曲第3番「ライン」とマンフレットの序曲をやった時、「ああ、この人も才能のある人なんだ」としみじみ思った。ただその曲のリズムや旋律に「この人は確かに精神を病む人だな」と感じたことも事実である。
  そういうことがあるので、この曲も最後にはわかってくることを期待はしているのだが、今のところは、?という感じではある。
  今日の練習は、独奏者との合わせの練習であった。やはり協奏曲は演奏者がいないと全然感じがつかめませんね。演奏はTさんで、うちの楽団とは約20年ぶりである。演奏はあたりまえだが「たいしたものだなあ」と感心しました。
  ところで、職場環境が変わったこともあり、最近は練習に比較的よく参加できるようになっている。そして練習に行くびに、我が娘が少し不思議そうな感じで「今日も練習なの」と聞いていたので、何故そんなことを聞くのかと思っていたのだが、今日、理由がわかった。
  どうも娘は、交響楽団というのは、普段は練習が無くて、演奏会の一ヶ月前くらいに、みんなで集まって何回か練習して、演奏会にのぞむものと思っていたらしい。
  何故そう思っていたのかはおわかりですね。私のここ何年かの練習の参加の様子がそういうふうに思わせたのである。まさに「親のふり見て、子は育つ」である。
  我が娘よ  練習は一年中、週一であるのだぞ。それを知った時に大きな声で「ヘエー そおなのおおお」と驚いてくれるな。 
  しかし少しというか、だいぶ恥ずかしい話である。 

2010年9月22日水曜日

ベートーベン 第九  それは人類の文化遺産

  四年ぶりにHさんの指揮での第九である。四年前にHさんは、「第九は人類の文化遺産である。」という言葉を言っておられた。まさしく自分で実際、弾いてみると、この言葉の意味が身にしみるほどわかる。まさに曲全体が巨大な建造物にも似て、その存在感に圧倒される思いである。アマオケであっても、取り組みがいのある曲なのである。
  そして、この曲に限らず、ベートーベンの曲には、無駄な音符は一つとしてないなあと、弾いていていつも感じる。ベートーベンがどんな人かはいろいろな解釈はあるが、少なくとも音楽に対して真摯で、すごく真剣に向かい合った人だというとは、弾いているとわかる
    反対にチャイコフスキーの曲には、なんでこんなところを繰り返すのか、こんなフレーズは必要なのかなあと感じることが結構ある。才能の無駄遣いという言葉が思い浮かぶ。魅力的なメロディに感心する反面、弾いていて退屈さを感じることも多いのである。
    たぶん、内面はやや不真面目な、怠惰なところがある人で、そういう面は人間誰しもではあるが、問題はそういう面を、自分の作った曲にも見せてしまう、心の弱さというか倫理観の弱さというのかな、そういう人だったのではないかという気がしてならない。
    ベートーベンがもしチャイコフスキーの音楽を聴いたら、その倫理観から激しく拒絶したのではないかと思う。ベートーベンの音楽に対する姿勢が、何世紀も後の人間にも、心地よい一種の緊張感を与えるのであろう。