2013年2月24日日曜日

歴史の共有 東アジアと儒教的価値観

   日本と中国・韓国との間で、近現代の歴史解釈の違いが問題化すると必ず、学者が集まって、歴史認識の共有をはかろうという話が出てくる。まあ無駄なことはおやめなさいと思うのだが、この両国と認識の共有が困難な理由を述べておこう。


  中国・韓国(たぶん北朝鮮も)の人たちの思考の根底には、儒教的価値観が色濃く残っている。

   儒教の徳目で上位にあるのは「仁」の実現だが、その根本は「孝悌」である。親や兄、いわゆる目上の人を敬い大切にせよという教えである。
そのため、親に子どもは服従することは当然ということになる。漢の劉邦が馬車に乗っていた時、狼にねらわれ、車体を軽くするために子どもを放り投げようとしたという記述があり、その時、劉邦は「なぜおまえ達は親を助けるため、自分から馬車から降りないのだ」と言ったという。この考え方は、中国人にとっては当然のことなのであろう。

また三・一運動の中心的人物の一人が、肝心な時に親が重体であると言うことを聞き、運動の指導を放棄し、古里に帰ってしまったということがある。韓国の人はこれを批判している様子はない。当然の行為なのであろう。

※韓国は偽証罪の多い国だが、彼らを道徳でないと言って批判することは適切ではない。日本人にとって(プロテスタント系の西洋人もだが)「正直」という道徳的価値は優先すべき価値観として一位か二位に置かれるものだが、中国・韓国では別の徳目が上位にあるという違いがあるだけである。

  どのような道徳的な項目を優先させるかは、民族により違いがあって当然で、そのこと自体は問題ではないが、孝の概念を優先させていくことは、歴史的な事象を正確に認識できない(もしくは正確に認識しようとしない)ことにつながる。

   目上の人に、孝をつくすということは、結果的に、絶対的に服従するとことになるわけだが、そのため父母の言うことに逆らったり、まして父母を批判することはとんでもない不道徳な行為になる。これは目上の人、例えば祖父や曾祖父を批判できないということでもあり、要するに彼らは自分の先祖を批判できないのである。

   正確な歴史認識は、歴史の事象を正確に把握し、昔の人が行った選択がどういうことに繋がったかを認識することから始まる。戦前、中国は半植民地の状態であえいでいたが、その原因に、欧米の植民地政策が基本にあることは間違いないが、清朝の政策ミスや中国人の選択ミスがあったことも事実であろう。また日韓併合にいたるまでの歴史を分析する際に、当時の日本とロシア、欧米諸国の動きと共に、李氏朝鮮王朝の内部抗争や、事大主義から脱却できなかったメンタリティという要素を抜きにすることはできないだろう。

   しかし、中国人や韓国人は、このような認識をすることができない。過去の歴史的な事象を検証していくと、どうしても自分の祖先の行動を批判することにつながるが、このことを考えようとすると、無意識のうちに「それはしてはいけない」と脳内でブロックがかかるのではないか。結果、祖先を批判できない=祖先は立派で、間違っていなかった→自分の祖先は正しかったのに、悪い状態になったのはなぜか→外国が圧倒的な武力で中国・朝鮮を圧倒したのだ→悪いのはすべて外国であるという思考過程になるのである。

 自分の祖先の過去の歴史や行動はすべて正しいもしくは批判が出来ないという前提で、物事を考えていくとすると、事実の正確な認識などは不可能ということになる。その結果、彼らにとって重要なのは、何がおきたかと言うことではなく、いかに祖先を傷つけないように歴史を解釈していくかということになる。

 以上述べた思考過程は、韓国人において強固で、中国人のほうが、まだ客観的に歴史を見ることができる要素があるのだが、現在の中国は共産党独裁で、共産党へ批判は禁止のため、ますます正確な近代史の編纂は不可能になっている。満州事変ぐらいから近現代史に関しては、中国共産党が崩壊しない限り、真実は明らかにならないと思う。
 
   中韓の方は、日本に「歴史の直視を」という言葉をよく使うが、歴史を直視できないのは、中韓なのである。


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