2013年2月8日金曜日

欧米人の価値観① 人生の意義とキリスト教 

   欧米の障害者を見ていると,人生を積極的に生きていこうとする姿勢を強く感じる。車椅子によるマラソン,テニスに取り組み,ダンスに挑戦する人までいる。物おじする事なく,常に挑戦し続ける姿勢は学ぶべきものがある。障害者に限らないが彼らのこのような人生に対する姿勢はどこから生まれるのであろうか。彼らの自然観,子育てのあり方等いろいろな要因があるが,ここでは宗教面から考えてみよう。

    一般に障害を持って生まれたり,事故で障害を受けたりすると,(また不運に見舞われてもおなじだが) 人は「自分は生きていく価値があるのか」という厭世観にとらわれる。こういう状態に落ち込むと,なかなか脱出するのに時間がかかり,しだいに心が病的になってしまうこともある。

日本人の目から見ると,なぜ欧米の人達は重い障害を持ちながらも,あんなに明るく活動的にふるまえるのか,不思議というか感覚的に分からないという感じがある。



  彼らの宗教はキリスト教である。この教えは,人間は神が創ったという。一人一人の人間に生命を与え世に送り込んだのは神のわざである。そこで,欧米人はなにか出来事があった場合,それは全てが神が与えたこと(神が与えた試練)と,とらえていく。彼らはこう考える。「この出来事は確かに不幸な事だが,神は私に何を伝えようとしているのか」「このことの意味は何か」「私にこのような障害のある身体を神が与えた意味は何か」等

    このようなキリスト教的な思考が、障害であっても、「意味あるもの」ととらえ,のりこえていく態度につながる。

   彼らにとっての人生は、必ず「何かの意味があるもの」であり,神が与えてくれた意味を明らかにし,実現していくことが,彼らの「生きる」ということなのである。
  繰り返すが、欧米人にとって生きていくことは、必ず「意味(意義)のあるもの」なのである。

    ところが日本人が人生を考える時には,「人生の意味はなにか」の前に,「生きることに果たして意味はありやなしや」というところから始める必要がある。欧米人に比べ,日本人は「生きる」ということは一段と複雑である。

   しかし,欧米諸国でもキリスト教の信仰は陰りが見えている。ニーチェが神を否定したことは有名だが,サルトルの実存主義なども,このあらわれである。

  サルトルは,実存は本質に先立つと唱える。人間は本質(なにか意味のあるものとしての人間)があるのではなく実存としての存在(存在そのものとしての存在) がまずあるのであるという主張である。
   このことは欧米人にとって大変なことを意味する。
すなわち彼らの前に初めて、この問いが突き付けれらるのである。
「生きることに意味は,ありやなしや」 

この問いに「意味がない」とするならば,ニヒリズムへの道はもう間近である。 (サルトルは,このような実存としての人間は,つらいものだが(神の裏付けがないため),自分でその「存在をひきとらなければいけない」と言うことによって,厭世的な考え方に陥らないようにしているが・・)

   日本人にとっては,実存主義という考え方は,別につらいものではない。というかつらいものではあるが先のような問いに対して,長い間耐えてきた歴史があるからである。日本人も,先の問いに対し,+の意義づけが見いだせず,一種の空しさにとらわれ無常感を持つ人は結構多いわけだが,その無常感をも人生の友とし,諦観するという態度は,日本人の一つの知恵であろう。
  一方、欧米人の信仰心の今後を考えると,あの積極的に生きる姿勢が、将来も続くとは限らないという感じがする。



追記                             
   アルベール・カミュの著書のなかに、「不条理」という言葉がでてくる。あたかもとても重要な概念で、深遠な内容を含むかのような取扱いを、日本人の解説者もしていたように思う。高校生当時に読んだ時には、何のことかピンとこなかったのだか、今にして思えば、ふに落ちるものがある。
  すなわち、キリスト教徒にとってはすべての事象が神の恩寵であり、何らかの意味を持つものである。世の中に無意味なものとか、条理の通らないことなど存在しない。ところがニーチェによる神の否定、サルトルによる実存主義という経過をたどり(カミュも実存主義者である)、初めて西洋人の前に、何の意味もないかもしれない事象が、まさしく「不条理」としか言い表し得ない事象があらわれてきたわけである。考えてみると、長い間、西洋人はそういう感覚を持たなかっただけ幸せだったとも言えよう。

   西洋人にとっては初めて味わう不条理な感覚であろうが、日本人にとっては何の不思議もない感覚である。たいていの日本人はこの感覚と共に人生を送っている。カミュを持ち上げていた当時の日本人の西洋哲学者は、大学で何を毎日深く思考していたのか不思議な気がする。

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