「人生とは何か」「生きる意味は何か」という問いがある。
古今東西、いろいろな答え方がなされる。
宗教的な観点からの答、何やら悟ったような答、なかには禅問答のようにいくら読んでも意味のつかめない答えもあった。きっと書いている本人もわかってはいないのだろう。
結局、心底、納得させてくれる言葉はなかった。
今は、このような問い自体に、あまり意味はないと思うようになった。
「生きる」ということに対するとらえ方は、いくつもあるが、現象面から見るとその答は単純である。
酸素を吸い、二酸化炭素を出すこと。
その過程でエネルギーを生み出し、自分のクローンを作り出す。
それが「生きる」ということである。
自然界に似た現象がある。
それは「燃焼」である。
酸素を消費し、二酸化炭素を出す。その過程でエネルギーを生み出す。
命の炎という言葉があるが、生きるということは、燃焼と同じである。
「燃えていること」 それが生きるという本質である。
燃えているろうそくに対して、「燃える意味は」とか「なぜ燃えるのか」と問う人はいない。
そういう問い自体に意味がない。
ろうそくは「燃えているから燃えている」としか言いようがない。
ただ「燃えている」のである。
同じように、「生きる意味は」と問いても、問い自体に意味がない。
「生きているから生きている」としか言いようがない。
生きるという現象自体に、意味はないが、かといって「無意味」でもない。
そういう問いとは関係なく、ただ「生きるという状態」が「存在している」のである。
炎は消えれば、ただ一つの現象が終了するだけで、何が残るわけではない。
同じように、生きることが終わっても、何も残らない。ただ一つの現象が終わるのみである。
人間が、考えてきた宗教、霊魂、死後の世界は、壮大なるかつ巨大な虚構であろう。
ただ、これら宗教に意味がないとは思ってはいないが。
同じ炎でも、ある炎は、家や木々を燃やし尽くし、ある炎は、人に暖をとらせ、寒さから守ってくれる。
どう炎を使っていくかという時点で「意味」が生じてくる。
命もどう使っていくかによって様々な意味づけが生じる。
人々をほっとさせ温めてくれる炎のような、+の意味づけができるように命を使っていきたいと思っている。
緩慢な燃焼を「酸化」という。
「酸化」のもう一つの形容は「錆びる」であるが、ただ錆びていくだけの人生は、やはり「寂しい」という形容があてはまるだろう。
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