2013年6月13日木曜日

日本の英語教育を考える 小学校英語教育の愚

基本的に、日本人は英語が話せない、もしくは苦手な民族だと言われている。実際、高校卒業までに、6年間の英語教育を受けてきたはずだが、たぶんその半分ぐらいは、外国人に話しかけられてもyesとnoしか言えないのではないかと思う。


そのため、英語教育にこだわりを持つ人は、早期教育を提唱する。その努力もあって、小学校5、6年に英語が取り入れられ、さらに4年生からという声も出ている。

しかし、日本人が英語ができない理由は、英語教育の問題ではない。そのため早期教育は日本においては効果は上がらないだろう。

日本人が英語が出来ない理由は、簡単に言うと

 「必要がないから」  である。


(1) 日本人が英語が出来ない理由
   現在の日本で(特に地方都市に住んでいると)、英語が本当に必要な場合など、ほとんどない。外人に道を聞かれた時や海外旅行に行った時に、「もっとしゃべればよかったな」と思うぐらいで、外国の小説や神話、聖書、社会科学・自然科学系の著書などもほとんどが翻訳されおり、大学の教育にもほとんど日本語だけで支障がない。
たぶん、英語を本当に必要としているのは、最先端の研究者、外国との取引の多い会社の担当者、観光業等、日本人の約10%程度と言われている。では、なぜ日本では、英語の必要性が低いのか、これには歴史的な理由がある。

①帝国主義の時代に独立を保ったこと
    帝国主義の時代には、資本主義の発達に伴い、植民地に大企業や銀行の資本が投下され、経済的な支配が強まったことはよく知られている。このことは、この時代の植民地の人々は、英語が話せないと生き残れない時代となったことを意味している。

例えば、もし日本にある会社、工場が全部イギリス資本であったらと考えると分かり易い。
経営者は勿論、上層部は全てイギリス人である。当然、社内の会話は英語であり、起案書等も全部英語で書かないといけない。就職試験も英語、面接も英語であろう。英語は必修なのである。嫌でもよりよい就職口を求めるなら英語が必要となる。

そうなると、家庭では祖父母としゃべる時は日本語だが、妻や子どもとしゃべる時は、英語混じりの日本語になるだろうし、その状態が20年も続けば、家庭での日常会話もほとんど英語に成り代わってしまう。

子どもたちは、日本語で書かれている本や古典は読めなくなる。読むのは、もっぱら英語の雑誌やコミックで、それらを通してイギリス的な思考や習慣を身につけていく。祖父や祖母とは意思疎通も難しくなり、日本語が失われるだけではなく、日本人の価値観や感性など、いわば文化そのものが継承されなくなり、消失していくだろう。

帝国主義的支配の恐ろしいのは、経済的な支配が強まるだけではない。その国の言語や文化まで奪ってしまうことにある。

幸いなことに、日本人は、明治維新や日清、日露戦争を勝ち抜くことにより、独立を保ったので、日本語とその文化を保てたわけだが、そのかわり強制的に英語を身につける機会もなかったのである。

②日本語が近代的な言語に生まれ変わることができたこと。
   アジア、アフリカの多くの国では、未だに自国語で大学教育ができない。戦後、独立はしたものの、英語は捨てることができなかった。なぜなら自国語は植民地支配を受ける前の状態で変化していないからである。彼らの自国語は、日本で言うと江戸時代の言語のままなのである。

江戸時代の日本語で、大学教育は不可能である。物理学や経済学の様々な概念に該当する日本語の単語そのものが存在しない。単語ぐらいなら、英語をそのまま使っても良いが、動詞も存在しないため、結局、英語での授業とならざるをえない。

日本は、明治維新前後に、外国の学問の諸概念に相当する単語を大量に作り出し、日本語を近代的な言語として生まれ変わらせることに成功している。結果、自然科学はもちろんのこと、哲学や神学であっても、翻訳が可能であり、たぶんノーベル賞級の最先端の研究であっても、日本語の範囲で研究が可能になっている。

結局、日本に住んでいる限り、大抵のことは日本語で用が足りてしまう。そのため外国語を学ぶ切実な必要性を、多くの日本人は感じないのである。

※大学の哲学の先生は、「原語(たいていの場合、ドイツ語)でなければ本当の意味はわからない」と言われ、常に原書を持ってこられ講義をされていた。言われることは本当なのだが、大変困ったことを覚えている。

一方、アジア、アフリカの国々では、独立を回復した後にも、英語を使う状態が続いている。日常会話は自国語でできても、高等な教育は英語でせざるを得ない。自国語にもどそうにもできない国が多いのである。

以上の理由により、日本は英語ができなくても、高度な学問の発達や社会の維持が可能な国になっているのである。

原語は一種の「道具」でしかない。いつも使う道具はいつでも使えるように手元に置くが、使わない道具は道具箱に入れっぱなしになり、そのうち錆びてしまうのは当然である。

日本のような国において、英語はいつも使う道具にはなり得ない。「理科」や「社会」と同じような「学問」として習い、身につくのは「教養」でしかないのである。小中高と習ってきた理科や社会、まして美術などは、その内容のほとんどを忘れてしまっていることから考えれば、英語も同じ状態であることに不思議はない。
そのため、今の日本の状況下で、いくら早期に教育を開始しても、英語が身につくことはないと予想できる。


(2) 今後の英語教育の方向性
現在の日本においても、本当に英語を必要とするのは、日本人全体の10%前後ではないかと先に書いた。(1970年代にもよく似た議論があって、この時は数%と言う人がいた)
「国際化」「グローバル化」などの言葉だけが虚しく踊ってはいるが、今後の日本を考えても、おそらく国民の八割近い人は、英語とは関係のない状態で生きていくと考えられる。

また、特に企業の方から、英語力の向上への要望が強いようだが、どの程度までの英語力を望んでいるのであろうか。
言語には、その言語特有の言い回しや話の進め方があり、それを利用して、相手をはめたり、誘導したりすることは、日常生活の中でもよく見られることである。そのため、日本人がいくら英語を習得したとしても、ネイティブにはかなわない。ビジネスの難しい局面では、結局、現地の有能な弁護士などを雇ったほうがよいということを聞いたことがある。

確かに、外人と日本語で契約をする場合、いくら日本語が堪能な外人であっても、日本語特有の言い回しを使い、いくらでも抜け道のある契約書は作れそうに思いますよね。

またバイリンガルを持ち上げる人がいるが、実態をわかっているのだろうか。はっきり言って、バイリンガルの持つ日本語力も英語力も、両方とも稚拙としか言いようのないものである。
日本語は日本語の、英語には英語の深い言語世界があるが、その独特な、味わい深い表現や心情の描写を、彼らは理解することができない。どちらの言語に対しても中途半端なのである。
人間の言語力は、ネイティブの言語力が低ければ、それに相応したレベルの外国語力しか身に付けることが出来ないし、両方を並行的に学べば、多くの場合、両方とも半端なものにしかならないのである。

大切なことは、今からの五十年ぐらいの単位で、日本人にとってどういう英語が必要なのかを考え、英語教育を組み立てていくことであろう。

(2) 英語教育私論
日本では先に書いた理由から、子供全員に早期教育を施しても効果が薄く、英語に時間をさくよりも小学校ではきちんとした日本語を身につけさせることの方が大切と考える。

英語は中学校からで十分である。しかし、中学校からの三年間は全員に英語の基礎を幅広く学ばせる。

高校以後は、全員に同じような英語を学ばせる必要はない。選択のコースを設け、選ばせてはどうか、さらに高度な内容で幅広く英語を学ぶコースの他、旅行などに必要な実用的な英語コースや外国に住むようになった場合に必要な英会話やその国の習慣や法律などの知識を学ぶコースなど複数用意することで十分ではないか。英語を希望しない生徒には無理に学ばせる必要もないだろう。

さらに大学では、本人の志や学科の特性に応じて、高度な英語のコースを複数準備すればよい。

言語教育は早いほうが良いという教科書的な見方で英語教育を考えるのではなく、これからの日本の方向性をにらみ、英語教育を戦略的に考えることが必要だと思う。









0 件のコメント:

コメントを投稿