2013年4月19日金曜日

秀頼は秀吉の実子だったのか


    秀吉と淀君の間には、二人、子どもが生まれている。一人目は鶴松、二人目が秀頼である。豊臣秀吉は、多くの側室を抱え、女好きであったことは有名である。言わば精力的な男なのである。普通の男子であれば、10人以上の子どもがいても不思議はない状態である。 しかし、淀君以外には、全く子どもが生まれていない。それで、既に秀吉生前の頃より、秀頼は秀吉の実子ではないということが言われていたようである。

※こう書くと必ず長浜時代に一男一女がいたという話が出てくるのだが、これも実子説、養子説両論があり、確定された話ではない。実子が生まれたのであれば、同時代の文書に何か記述があるのではないかと思う(「木下殿に子どもがお生まれになり、喜んでおられる」とか)が、全くみあたらないようである。また母親の名前もはっきりとしない。養子であるなら、政治的な感覚の鋭い秀吉のことなので、それなりのところからもらい、そのことに関する伝承や記述がどこかに残るのではないかと思うが、それもない。
もっとも同時代に生きた柴田勝家でさえ、勝里、勝忠という実子がいたようだ程度しか伝わっていないので、この時代はそんなものだったのかもしれないが、一方、前田利家の実子に関しては、生年、母親共にはっきりと記録に残されている。滅び去った者は記録も残せないということだが、秀吉は太閤になってからでも自分の記録を整備できる時間はあったのだから、もっと長浜時代のことがはっきりしても良いようには思う。結局、子どもはいなかった、もしくは子どもは生まれたのだが、表に出せないような事情があったのかも知れないという感じがする。
またおねねと結婚したのが1561年、長浜に城を築いたのが1575年で、25歳~39歳までの最も生殖活動が盛んな時期に、子どもができていないのだから、やはり無精子症もしくはそれに近い体質だったのは間違いないのではないだろうか。



   現在でも、文献を詳細に分析して、様々な説が述べられているが、厳密には、淀君自身しかわからないことであり、DNA検査でもしないと、現在でもわからない話ではある。(秀吉は火葬ではなかったと記憶している。秀頼は灰になってしまったようだが、国松や天秀尼の遺骸はないんでしょうかね。)そのため、どんなに詳細に検証をしても、結局、憶測にしかならないのですが、私の印象を書いておきます。

    鶴松に関しては、秀吉はその誕生を大変喜び、かわいがっている。自分の実子でないかもしれないという様子は、ほとんど、うかがえない。たぶん本当に子供ができたと思っていたのだろう。
  しかし、秀吉の思いとは別に、鶴松は秀吉の子では無い可能性は高いだろう。たぶん無精子症もしくはそれに近い秀吉に子供が授かる可能性は限りなく低い。しかし、それでも鶴松は秀吉の実子である可能性は0ではない。


  しかし、秀頼はまず確実に秀吉の実子ではないと考える。

理由は次のようなことである。
①長浜時代のことが事実だとしても、無精子でないにせよ、きわめて子供ができにくい体質だったのはまちがいない。それで鶴松が授かる可能性は、なきにしもあらずとしても、日をおかず次子が授かるというのは、確率的に考えにくい。

②秀吉の態度も、鶴松の溺愛ぶりに比べると、秀頼のそれは、熱が冷めたような感じがある。秀吉自身も、秀頼に関しては自分の子かどうか疑念を感じていたというより、残された書状から見ると、実子ではないと思っていた様子がうかがわれる。

③北の政所の態度
   北の政所、おねねは、近江系の淀君グループと反目し合い、結果として彼女は徳川方に荷担していく。従来、これは出身グループの対立と言われていたが、それにしても、ねねの秀頼に対する態度は、冷めたものを感じる。彼女だったら、秀頼が本当に秀吉の子なら、最後まで家康に助命嘆願をしたり、大阪の陣がおこるまでに、秀頼をなんとか出家させたりして、大阪城から出したり、その他、効果があるかないかは別として、考えられるだけのことはするのではないかと思われるが、そんな様子は全くないのである。
 彼女は秀頼が秀吉の子ではないと知っていたのではないか。そのため秀吉が死んだ時点で、豊臣家は終わったと思っており、淀君のやることは、「あれは他の家の方のこと」と思っていたのではないかという印象がある。

また秀吉は配下の武将が相次いで徳川方に付いた理由は、北の政所と近江系の淀君の対立がよく言われるが、その心理的背景に「大阪城にいる方々は、秀吉殿とは関係ない人」という思いが、徳川方に付く際に働いた可能性が考えられる。

④淀君自身に、最後まで秀吉に対する憎しみが心の中にあったこと。

淀君自身が、秀吉を好いていた様子は、文献を見る限り皆無である。秀吉の溺愛ぶりについては沢山見られるにもかかわらず、彼女の秀吉に対する態度は、冷めたものを感じさせる。彼女が秀吉の側室になったのは、妹たちに害が及ぶのを避けるためだったという説がある。そうかもしれない。むしろ、秀吉に対する憎しみを最後までもっていたのではないかと思う。

 彼女の父、浅井長政は実質、秀吉軍によって殺されており、お市の方は そのことを最後まで許さなかったと言われ、当然、その気持ちは娘のお茶々も共有していただろう。
   お市の方は、浅井家の供養を絶やさぬようにということを、娘たちに言っており、娘たちはそのことを実行している。そんな秀吉に抱かれざるをえなくなった淀君の心情は哀れでもあるが、そのため、秀吉以外の子どもを生むことに、何のためらいもなかったと思われる。
   想像をたくましくするなら、相手は浅井家もしくは織田家の血筋をひくものだったと考えることもできよう。そしてそんな秀頼を自分の後継者にせざるを得ない秀吉を、さめた目で見ていたのではないだろうか。

しかし、一方、秀吉自身は死ぬまで秀頼とその将来を気に病んでいたことも事実である。自分の子ではないだろうという思いは、まず確実にあったと思われるにもかかわらず、こういう態度が取れるのは、秀吉という男は大変、気の優しい人だったのではないかという気がする。

「・・・・夢のまた夢」とは秀吉の辞世の句と言われているが、秀吉自身、すべてをわかっていたとするなら、この句をよんだ心情的風景は、また哀れさを感じるものである。





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