2013年2月24日日曜日

歴史の共有 東アジアと儒教的価値観

   日本と中国・韓国との間で、近現代の歴史解釈の違いが問題化すると必ず、学者が集まって、歴史認識の共有をはかろうという話が出てくる。まあ無駄なことはおやめなさいと思うのだが、この両国と認識の共有が困難な理由を述べておこう。


  中国・韓国(たぶん北朝鮮も)の人たちの思考の根底には、儒教的価値観が色濃く残っている。

   儒教の徳目で上位にあるのは「仁」の実現だが、その根本は「孝悌」である。親や兄、いわゆる目上の人を敬い大切にせよという教えである。
そのため、親に子どもは服従することは当然ということになる。漢の劉邦が馬車に乗っていた時、狼にねらわれ、車体を軽くするために子どもを放り投げようとしたという記述があり、その時、劉邦は「なぜおまえ達は親を助けるため、自分から馬車から降りないのだ」と言ったという。この考え方は、中国人にとっては当然のことなのであろう。

2013年2月23日土曜日

欧米人の価値観④ 欧州人が AT車に乗らない理由

私は未だにMT(マニュアルシフト)の車に乗っている。日本では、いつのまにかAT(オートマティック)比率が98%を超えてしまったので、MTの車を探すのに苦労する状態である。ところが欧州ではMT比率が未だに90%以上である。
何故彼らは、MTにこだわるのであろう。この理由について明確に述べた自動車評論は、見つけることができなかった。

私が、ATが嫌な理由は、ATの車は何か「自分で勝手に動く」という感じがするからである。きちんと車を自分でコントロールできない感じが嫌なのである。たぶんヨーロッパ人が、嫌なのもこの点だろうと思う。

ヨーロッパは、氷河地形であることはよく知られている。そのためフランスあたりでも表土が30㎝程度、ドイツあたりだと15㎝程度で(←はるか昔に習った高校地理でのうろ覚えで不正確である)、その表土が流失してしまえば、その下は岩盤である。   基本的に痩せこけた土地なのである。

2013年2月15日金曜日

チェロの購入② 楽器の選び方 その曖昧模糊

   最初の楽器は、よくわからないまま予算の範囲内で、購入してしまうことが多い。しかし、2代目の楽器はほとんどの場合、一生つきあうことになるので慎重に選びたいところだが、 なまじ音色の善し悪しも少しわかるようになっているので、かえって出自の悪い楽器を選んでしまうこともある。


   楽器を選ぶ時は、まず「音色・音量」が気になるため、無意識のうちに重要度が、音色・音量→弾きやすさ→楽器の色や形→健康状態(キズや割れ、剥がれ、指板や駒、エンドピン等の状態)となってしまいがちである。そのため音色の良さに惚れ込んでしまって、時に、とんでもない楽器をつかまされてしまうこともある。健康状態等も総合的に判断して、楽器を選ぶようにしましょう。

(1) 新作がよいのか、古い楽器がよいのか
    基本的には新作を選ぶほうがよいと思います。
  新作のよい点は、製作者が確定しており、値段もそれなりに適正であることや、健康な楽器が多いことである。
 古い楽器は、特有の音がするため、手にすると心がひかれるが、破損が多く、購入後も不具合が出て手がかかる場合がある。チェロの修理は、何千円ですむことは稀で、たいてい何万、へたすると何十万とかかってしまうのは、経験した人もおられるでしょう。
    また価格は楽器屋が勝手につけるわけだから、この価格が適正なのかどうか何とも言いようがない。楽器に貼ってあるラベルは、まあ適当に貼ってあるだけと考えた方がよい。リスクが大きいのである。

どうしても古い楽器を購入したい場合は、
①信用できる店で(=信頼できる人に紹介してもらうのが一番良い) ※お店の選び方は「チェロの購入① 楽器店の選び方」を見てください。 
②楽器の状態をよく説明を受け、納得の上で
③不具合が出た場合にそなえ、なるべく近くに腕の良い楽器店があること(場合によっては何回も通うことになるので)

が、購入の目安になると思います。

古くて良い楽器は、店に出回る機会も少ないです。
基本的に古い楽器選びは、素人は手を出さない方がよい分野と考えましょう。

2013年2月10日日曜日

運動部の指導者考 体罰と指導

         ~大阪の事件に寄せて~ 
  大阪の高校で、バスケ部のキヤップテンが自殺するといういたましい事件が起きた。体罰に耐えかねての事件とか、いやあれは暴力だとか、様々な意見があり、事態はまだ収束していない。

※内容は、報道されたことのみを材料にしている。マスコミの報道は、偏りがあり、自分の報道したいこと(いわゆる事件性の感じられることには大変敏感である)以外は、見向きもしないということもわかっている。なるべく客観的に述べたつもりだが、本当の真実はまだ明らかではありません。今のところ、こう感じるという文章です。

   まず体罰と暴力はどう違うのだろう。一般的にはこのような感じだろう。

暴力は (清掃をしない生徒に対し)
  先生:おい、君、そうじをしなさい
    生徒:うっさいんじゃ ボケ
    先生:なにを言ってるんだ。そうじをしろって言ってるんだ。
    生徒:うぜーなあ、うっさいいうてるやろ かすがあ
    先生:なにい いいかげんにしろ こっちへこい 

・・・で始まるのは、たぶん暴力でしょうね。

チェロの購入① 弦楽器販売店の選び方 その魑魅魍魎


チェロを始める時には、学生なら学校の楽器、教室で習う場合はその教室の楽器を借用することも多いが、しばらくすると、必ず自分の楽器が欲しくなる。

そして近くの楽器店に飛び込んで、楽器を見て回ることになる。

ところが、この弦楽器販売店というのが、かなりのくせ者である。
商売なので、仕方がないところもあるのだが、結果、とんでもない楽器をつかませられて泣く人も結構いるのではないかと思う。

この業界は、品質や販売について法律上の規制がない。
一応、中古楽器を売るのなら、古物販売の許可は必要になるが、それさえ持っていない店もある。
口先三寸で販売して、だまされた方が悪いといった雰囲気さえある。


楽器購入後、どうもおかしいと思って再度訪問すると、彼らが使う言葉にこんな言い方がある。

「お客様自身が、この楽器に100万の価値があると判断されて購入されたのでしょう」(=私の責任ではありません)

はっきり言って、詐欺師の言い方である。

2013年2月9日土曜日

ベートーベン 交響曲第5番「運命」  休符 の意味

   先日、フルトヴェングラーの第5の1楽章をあらためて聞いてみた。曲自体は、結構ねちっこい内容なのだが、情緒に流されず、強靭な精神性を感じさせる、最終的には乾燥した空気の中で、雷鳴が「カラッ」と轟いたような演奏をしていた。日本人にはなし得ない演奏だった。

 ところでこの曲の冒頭は、大変有名である。「ジャジャジャジャーーン」というフレーズは、この曲の大きな主題である。しかし、ご承知のように、このフレーズは8分休符から始まる。

「(ウッ)ジャジャジャジャーーン」なのである。このフレーズはすべて同じパターンである。

   ベートーベン自身は「運命はかく扉をたたく」といったそうだ。なるほど8分休符から始まるこの曲は、明らかに何者かが私の人生に影響を及ぼす情景をあらわしている。何かにドアをたたかれるという受け身的な自分を、この休符で表現しているのである。


欧米人の価値観③ 自立した個

 自立した個という言葉がある。個の確立とか自立した個というのは,現在の日本の教育の一つの流れでもある。そして「自立した個という存在は好ましい」という価値観が現在の主流にもなっている。このような近代的な個という概念は,欧米諸国で成立したものであるが,ここでは,はたして自立した個ということが本当にありえるのかということを述べておきたい。

   普通,自立した個という言葉のイメージとしては,あくまで理性的,意志的な人間の事であり,他の影響や自分の弱い部分に流されることなく,内面の価値観や道徳律に従って、毅然としてやるべきことをおこなっていく人間というものであろう。このような人間像は,先に述べたように西洋的な価値観が色濃く反映しているとは言え,一人の人間としての理想的姿として,普遍的な要素をもつもので,その意味で現在の日本でも一般的に受け入れられやすいものである。しかし,実際問題としてこのような人間がどれほど存在し得るのであろう。

2013年2月8日金曜日

欧米人の価値観② 罪の文化と恥の文化


   ドストエフスキーが、「神が存在しないとすれば、なんでもやっていいじゃないか」というような意味を言っている。一方、日本にきた宣教師が「日本人は神を信じていないのに道徳心が存在するようにみえるのは不思議だ」ということを言ったという話もある。 

   西洋人はこんなことをたびたび言う(らしい)。道端にお金が落ちていた時、もし人が見ていたら、日本人は拾わない(自分のものにしないという意味ですね)だろう。それは人の目を気にして、そういう行為をすると人に笑われると恥ずかしいという感覚があるからだ。そのかわり人がいなければ黙って拾って自分のものにしてしまうだろう。これを「恥の文化」という。我々西洋人は、人が見ていなくても、自分の物にはしない。そういう行為は罪と考えるからだ。言わば道徳律が内面化している。だから「恥の文化」より「罪の文化」のほうが優れている。

欧米人の価値観① 人生の意義とキリスト教 

   欧米の障害者を見ていると,人生を積極的に生きていこうとする姿勢を強く感じる。車椅子によるマラソン,テニスに取り組み,ダンスに挑戦する人までいる。物おじする事なく,常に挑戦し続ける姿勢は学ぶべきものがある。障害者に限らないが彼らのこのような人生に対する姿勢はどこから生まれるのであろうか。彼らの自然観,子育てのあり方等いろいろな要因があるが,ここでは宗教面から考えてみよう。

    一般に障害を持って生まれたり,事故で障害を受けたりすると,(また不運に見舞われてもおなじだが) 人は「自分は生きていく価値があるのか」という厭世観にとらわれる。こういう状態に落ち込むと,なかなか脱出するのに時間がかかり,しだいに心が病的になってしまうこともある。

日本人の目から見ると,なぜ欧米の人達は重い障害を持ちながらも,あんなに明るく活動的にふるまえるのか,不思議というか感覚的に分からないという感じがある。