(1) 日本の戦後補償
こういう質問、絶対あるはずだと思っていました。教科書を見ても、とても賠償が終わったようには書いてありませんからね。まさに“教科書が教えない戦後賠償”についてお答えしましょう。
昭和20(1945)年、敗戦国となった日本は7年間の占領期間を経た後の昭和26年に、サンフランシスコ条約を結んで連合55国ヶ国中48ヶ国と講和をしました。この条約とそれに続く個別の国との協定で、戦争で日本が与えた損害に対して賠償を行なうことを約束し、ここから戦後処理が始まったのです。
例えばフィリピンには賠償約1980億円、借款約900億円、インドネシアには賠償約803億円、借款約1440億円を支払っています。この他、賠償、補償の総額は約3565億5千万円、借款約2687億8千万円で併せて6253億円にのぼります。これ以外にも事実上の賠償として、当時日本が海外に保有していた財産はすべて没収されました。
それは日本政府が海外にもっていた預金のほか鉄道、工場、建築物、はては国民個人の預金、住宅までを含み、当時の計算で約1兆1千億円に達しています。
現在の経済大国、日本ではなく、戦後のまだ貧しい時代に、時には国家予算の3割近くの賠償金を約束し、きちんと実行してきていたのです。ちなみに昭和30年のスチュワーデスの初任給は7000円でした。
さて最近、韓国から個々人に補償を要求する動きが新聞やテレビで報じられていますが、これについても一言ふれておきましょう。
昭和40(1965)年、日本と韓国は日韓基本条約を結び、日本は無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、民間借款で3億ドルを支払いました。そこで、日本が韓国内に持っていた財産を放棄することも含めて「両国民の間の請求権に関する問題が 完全かつ最終的に解決された」としたのです。民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1.45倍にあたる膨大な金額です。韓国はこのお金の一部を「軍人・軍属・労務者として召集・徴集された」者で死亡したものの遺族への補償に使いましたが、大部分を道路やダム・工場の建設など国づくりに投資し「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げました。韓国は日本から得たお金を個人補償として人々に分配することよりも、全国民が豊かになることを選び、それが成功したのです。そして韓国のとったこの行動は韓国自身が決めたことですから、出した日本がその使い道にあれこれ言うことはできません。(外交交渉の中で、日本はなるべく個人への補償をおこないたい旨を韓国に伝えているが、それに対して韓国政府は、お金はすべて韓国政府に渡して欲しい。またそれをどう使うかは韓国政府の判断に任せて欲しい。というのが答えであった。