2013年3月23日土曜日

欧米人の価値観⑥ 自由と運命

「運命はかえられる」という言葉が、洋画を見ていると結構頻繁に語られることが多いのに気付く。日本人にとってこの言葉は、「生きていく上では、いろいろな障害やトラブルもあるが、強い意志をもてば、道はひらけるものだ」という感じで捉えられており、いわば、流れに流されるだけでは駄目だよなあという感じの、日常的感覚の中で当たり前の言葉としてとらえられるものである。

しかし、洋画では、この言葉が結構繰り返し何回も、なにか自分に言い聞かすかのように使われている。この執拗さは少し気になるところである。


実は、「人間は自由な存在か」という命題は、ヨーロッパ社会ではかなりやっかいな問題である。キリスト教徒にとって、人間は、神によって作られた存在であり、その人生の目的も生き方もすべて前もって決められているという考えがある。すなわち、人生そのものが神の導きであり、それをはずれた行動などそもそもできない、人間が何か自分の意志で自由に決めているように見えても、全ては神が導いているにすぎないと考えるのである。こうなると人間に自由な行動や意志などそもそも存在しないことになる。いやそうではない、人間は自由に行動でき自由にものを考える事ができるのだと言い出すと、反対に、神の全能さに疑問が残る事となり、神は不自由(全能ではない)な存在となる。この矛盾する命題を「  」(←言葉がでてきません)と言う。
 西洋人にとって、自由とはこのような宗教的な課題の中で長年考えられ、発達してきた思想であるが、そのため、西洋人は何をしても、どう行動しても、結局、最終的には何かにコントロールされている、誰かに決められた運命を歩いているに過ぎないという感じが強いのであろう。

   そういえば、結局、最終的には全部がコントロールされていたに過ぎないという結論の映画も多いように思う。


西洋人が言い聞かすように「運命はかえられる」という言葉を繰り返すのは、そういうコントロールから抜け出したいという感じを意識下に於いて強く持っていると言うことであろう。

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