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2018年2月7日水曜日

国歌「君が代」について

北陸地方も、ここ数年は雪もあまり降らず、時には冬でも晴れ日が続き、「東京みたいだ」などと呑気にかまえていたら、久しぶりの大雪である。
なんとなく家に閉じこもりしんしんと降る雪を眺める感がある・・というわけで久しぶりにブログを更新します。

話は「君が代」についてである。ただし君が代は国歌にふさわしいかとか、君が代の「君」は誰をさすのかとか、お前は右か左かという例の議論ではありません。
歌詞に注目が集まりがちですが、主に旋律についての私の素朴な感想です。

①メロディーは何とかならんのかと思うこと

ア)終わり方が変?
私は、小学1年生の最初、音楽の時間に校歌とともに「君が代」を習った。確か教科書の最終ページに載っていたと記憶している。

 
初めて聞いた感想は、「えっ これでおわり?」である。

この曲は、レで始まり、レで終わる。既に西洋音楽に耳が慣れていたのだろう。何ともおさまりの悪い曲に聞こえた。「ラーソミレーミレドーー」だったらいいのにとか思った。

2017年6月9日金曜日

曖昧な宗教的空間を漂う日本人について

「宗教というものを、心の底から信じきることができる人は、少し、生きることが楽になるかもしれない」と思ったことが、何回かある。

私自身は、墓参りもするし、法事も忘れずにおこなう。神社に行けば手も合わせる。
しかし、基本的には日本的な神的雰囲気のなかで漂いながら、それにあらがうほどの信念もなく、また反対に何かを熱心に信仰することもしない人間である。どちらかというと不信心な部類の人間であろう。


キリスト教徒から見ると、日本人の信仰は不思議というか、本当の意味での信仰心は持っていない人たちと見えるだろう。

2017年5月18日木曜日

「命の授業」をやってはいけない理由 900日 (豚のPちゃんと32人の小学生)

だいぶ前の話ですが、小学生に豚を飼わせ、大きくなったら屠殺し、肉を食べることにより、命の大切さを感じさせるという授業が話題になったことがありました。
さらにこの先生は実践したことを「命の授業 900日 豚のPちゃんと32人の小学生」という本にしている。また映画にもなり、それは私も見たことがある。

映画や本を児童・生徒に見させ、命について考えさせるのはいいとしても、実際、このようなことを子どもにさせることは反対である。
それは、以下の理由による。

2017年1月1日日曜日

小学校算数 「3.9+5.1=9.0」 9.0という答がダメな理由

小学生の算数の授業で、9が正解で9.0と書いたら減点され、それに対して、一緒だろとか9.0の方が正確だろうとか、これは子どもにとって拷問に近いとか、何やら、かまびすしいことである。

まず、理解しないといけないのは、この問題は
「小数点を初めて習う小学生に、小数点の概念をどう教えるか」
ということだということである。

2016年4月30日土曜日

オリンピックを「楽しみたいです」と言う選手たち

オリンピックに出場する日本人選手が「楽しんできたいです」と言うようになったのは、いつ頃からだったろう。たぶんもう20年はたつのではないだろうか。

それまでは、「頑張ってきます」「全力を出し切ります」「金メダルを目ざします」とかいうのが普通だったので、「楽しんできます」という言い方は新鮮に聞こえたが、若干の違和感があったのも事実である。今でも、違和感は感じる人はいるようで、「オリンピック代表は、国民の税金を使いその代表として出場するのだから、おまえらの楽しみのために行ってもらうわけではない」云々はよく聞く意見でもある。

2016年1月30日土曜日

外国人観光客と刺青 温泉地のトラブルに思う

外国人観光客が増えるに従い、刺青のある外国人と温泉地でトラブルが増えているとのこと。難しい問題である。結論が出る訳ではないが、思うことを書いておく。
 
西洋人は気軽に刺青を入れると言われている。
 これは「身体」に対する感覚が日本人とは違うからである。

西洋人(キリスト教徒)にとって、人間は、神が土塊から体をつくり、それに魂を与えた存在と考えている。魂の救済こそが大切で,身体などは「土塊」、すなわち物体、せいぜいで「精巧な機械」という感じしか持っていない。そのため、体(=機械)のメンテナンス=トイレや化粧、お風呂等を同じ場所でやるのは当然という感覚になる。自動車が、エンジンオイルの交換や洗車などを同じ場所でやって違和感がないのと同じですね。
またそこから、もう動けなくなった自動車から、使える部分ははずして使うのは当たり前(=心臓移植等の臓器移植が盛んな理由ですね)という考えが出てきますし、自動車に「ワッペン」をぺたぺた張って(=刺青をあちこち入れて)も、特に抵抗感がないわけですね。

2015年10月28日水曜日

日本の仏教② 葬式に参列して思うこと

ご近所にご不幸があったので、通夜、葬式に参列してきました。荘厳な雰囲気の中、滞りなく行われていきました。

浄土真宗によるものである。

というか、私の地域では、浄土真宗によるものが大半である。

昔からの浄土真宗王国なのである。

しかし私は父親を若いうちに亡くしたため、家の代表として会葬の機会も多く、天台宗や浄土宗など他の宗派の葬儀も経験はしている。

そこで他宗派と比較すると、浄土真宗の葬式は、よく言えば簡素、悪く言えば素っ気ない感じがする。

2015年10月16日金曜日

日本経済の現状と将来  経済音痴が考えた日本経済


2010年7月記述  
長文の上に悪文です。
自分用のまとめです。(まとめにもなっていませんが)

国債発行残高が600兆円だの800兆円を超えたとか、これは経済クライシスの危険が高まっただの、大丈夫だからどんどん発行しろだの、国債に関しては正反対の意見があり、何が本当なのかわからない。大学で長年、経済学を研究していると称している大学教授の出番だと思うが、彼らは何をしているのであろうか。役立たずであることは間違いないようである。
私は、経済学はほとんど学んだことはないが、経済学者がこの体たらくなら、学んでな
い者が意見を言っても良さそうなので、国債についての一考察を書いておこう。

2015年9月18日金曜日

校長の公募制に思うこと 大阪の事例から

少し前の話だが、大阪の公募制によって校長になった人たちが、次から次へと不祥事をおこして辞職するということがあった。

これは橋下さんが知事時代に始めたことだが、最初からうまくいくのかなあと思っていた。

教育に外部の新鮮な視点を導入することによって、教育の活性化をはかるというのが目的だろうが、教育という分野も専門性が高い分野で、先生が一人前になるためには多くの経験や実践を積むことが求められる。それを、学校のことを全く知らない人が入ってきて、「こうしろ、ああしろ」と言っても、ピント外れの実情に即さない指示に終わってしまい、先生方がついていけないだろうと思う。
銀行の支店長に「外部の新鮮な視点が必要だ」と言って、学校の校長先生をつれてきたら、だれもが「そんなもん だめやろ」と思いますよね。同じ事だと思いますよ。

2015年6月23日火曜日

日本の仏教① 法事に行って

法事に行ってきた。

例のようにお坊さんからお経をもらい、最後に説教を聞く。(ちなみに浄土真宗である)

何事もない日常の風景である。

お布施の額により、あげるお経がかわることは、特に何も思わない。
※仏説阿弥陀経て、あんなに短かったっけ。若いころに聞いたときには、もっと長かった気がするのは年のせいか。それとも長いバージョンと短いバージョンがあるのか?

しかし、その後のお説教を聴きながら、既成の仏教はこれで大丈夫なのかねとは、いつも思う。

2015年5月28日木曜日

無神論者とはなにか イスラム風刺と表現の自由


フランスの出版会社が、イスラム教をおちょくる風刺画を掲載したため、報復され、またそれに対して表現の自由を守れと、ヨーロッパが盛り上がっているとか何とか。

日本人にとっては、何やら違和感を感じる流れである。

どこに違和感を感じるかというと、日本人の基本的感覚として、人が大切に、神聖にしているものは、自分はそう感じなくとも尊重するいう感覚がある。

あの風刺画にはそういう感覚は全く感じられず、あのアラーをおちょくる風刺画は、風刺というより下品で、便所の落書きに近い物である。ウィットもユーモアも感じない。

あれでは、イスラム教徒は激怒するのも当然だし、ヨーロッパが騒ぐような「表現の自由」とは別次元の問題である。

2014年10月27日月曜日

戦前の家庭教育② 最近「格下の相手」という言葉を聞くが

戦後、戦前の教育は否定された反動か、最近は戦前は良かったという風潮が生じているようである。


私は完全に戦後の生まれであるが、昭和三十年代までは戦前の雰囲気が残っていたように思う。そこでの感じだが、確かに戦前の教育は、戦後言われるほど悪いものではなかったと感じている。

2014年7月21日月曜日

科学という学問③ 自然科学と社会科学の違い

先に、社会科学は、曖昧な部分が大きいというようなことを書いた。
そのため、社会科学者は、自然科学の手法を取り入れ、学問としての厳密さと客観性を確定しようとする傾向がある。

大学の一般教養の心理学や経済学で、ある種の数式を教えられた経験はだれでもあるだろう。(統計学のことではない)
しかし、その数式には、何の意味もないなと思ったことも覚えている。

社会科学が扱う大半の社会事象は、数式であらわされるような単純な要素だけで成り立っていないし、そこをあえて数式であらわしてしまうと、事象の大切な部分が抜け落ちてしまう。

自然科学者は
 安易に「曖昧」に逃げてはいけない。
 「厳密」に耐えなければいけない。

社会科学者は
 安易に「厳密」を求めてはいけない。
 「曖昧」に耐えなければいけない。  

       と思います。

2014年6月28日土曜日

科学という学問②  「信じる」という言葉を科学者は使ってはいけない

 科学という学問は、西洋で発達した学問だが、キリスト教と密接な関係がある。

※ここでいう「科学は西洋で発達した」という意味は、科学的な発見、発明をさしているのではない。科学的な発見自体は、世界中に昔から存在する。科学という学問の持つ基本的な考え方を、現象を解釈する学問として成立させたのは、西洋人であるという意味である。

 普通、科学と宗教は対立する概念と思われているが、
西洋の場合、科学はキリスト教を母体に発達してきたという面があり、対立しているようでそうでもないという複雑な関係がある。

現在の物理学者や天文学者でも、物質の(または宇宙の)究極の姿があらわになった時に、そこに「神」の真理も見えてくると考えている人は、普通にいる。

しかし、そのような科学者が、決して使わない言葉がある。それは「信じる」という言葉である。

2014年4月4日金曜日

早期教育の問題点② 子供を過度に鍛える親たち

子供に小さい頃から、特定の運動や芸能を習わせ.る風景はよくあることだが、そんな中で、朝から夜中まで過酷と言っていいような英才教育を施す親がいる。ゴルフ、野球、サッカー、テニス、ピアノ、ヴァイオリン等等。

あまり好き嫌いで物事を判断する方ではないのだが、私は、このような行為をあまり好きではない。

こういう親は、たいてい何か強烈な思いこみを持っている。そして、そういう親に育てられる子供は、親の思いこみによって可能性を奪われることになるからである。

2013年9月18日水曜日

人生の意義 生きる意味 生命と燃焼

「人生とは何か」「生きる意味は何か」という問いがある。
古今東西、いろいろな答え方がなされる。

宗教的な観点からの答、何やら悟ったような答、なかには禅問答のようにいくら読んでも意味のつかめない答えもあった。きっと書いている本人もわかってはいないのだろう。

結局、心底、納得させてくれる言葉はなかった。

今は、このような問い自体に、あまり意味はないと思うようになった。

「生きる」ということに対するとらえ方は、いくつもあるが、現象面から見るとその答は単純である。

酸素を吸い、二酸化炭素を出すこと。
その過程でエネルギーを生み出し、自分のクローンを作り出す。

それが「生きる」ということである。

2013年6月26日水曜日

呼と吸  日本と欧米の違い


呼吸をするということは、生きるという意味と同じである。


欧米人は、人間は、神が泥をこね、最後に魂を吹き込んでつくったと考える。そのため人間は、生まれた瞬間に息を吸って、生命活動を始めることとなる。死ぬ時には、「最後の息を神に返した」という表現があるように、息を吐いて終わることになる。

欧米人にとっては、生まれた瞬間に、まず息を吸い、そして吐いて、吸って、吐いて、吸って・・・最後に息を吐いて、死んでいくのである。呼吸という言葉があるが、彼らにとっては正確に言うと「吸呼」が、1つのセットということになる。

2013年6月19日水曜日

世界の宗教 入門編  仏教 その1


開祖:ゴータマ・シッタルダ 釈迦族の王の息子

(1) 教義の概要

インドにはこの当時から(今もだが)、人間は死ねば、それで終わりではなく、生まれ変わるという考えがある。この場合、何に生まれ変わるのかは、生きていた時のおこないで決まるので、人間だった者が、悪いことをしていれば、次は犬になり、犬の時に悪いことをすれば、次は亀になり、亀で悪いことをすれば(亀の悪い行為とはなんだ?)、次は虫になるという具合である。良いことをすれば、次々と上にあがれるわけだが、人間で良いことをしていれば、次は例の「カースト」を次々とランクアップできることとなる。これを未来永劫繰り返すことを「輪廻転生」と呼ぶ。

※こういう考えが根底にあると、既存の社会制度を打ち壊し新たなものをたてるという態度が生まれにくい。生まれたカーストとしての仕事を全うすることが大切で、そのことを行えば、次は上級カーストに生まれると考え、行動することが自然になるからである。ここらへんのことがカースト制が戦後、廃止が宣言されても、現在もなくならない理由となっている。

2013年6月13日木曜日

日本の英語教育を考える 小学校英語教育の愚

基本的に、日本人は英語が話せない、もしくは苦手な民族だと言われている。実際、高校卒業までに、6年間の英語教育を受けてきたはずだが、たぶんその半分ぐらいは、外国人に話しかけられてもyesとnoしか言えないのではないかと思う。


そのため、英語教育にこだわりを持つ人は、早期教育を提唱する。その努力もあって、小学校5、6年に英語が取り入れられ、さらに4年生からという声も出ている。

しかし、日本人が英語ができない理由は、英語教育の問題ではない。そのため早期教育は日本においては効果は上がらないだろう。

日本人が英語が出来ない理由は、簡単に言うと

 「必要がないから」  である。

2013年6月12日水曜日

日本と欧米の子育て文化 褒めると叱る

2001年記述


文部省から家庭教育ノートという小冊子が出された。

その中の日本と外国の意識調査を見ると,自分の子供の成長に満足していると答えた親は,日本では約40%前後であるのに比べ,アメリカやイギリスの親は,約83%前後になっている。また子供に対しての質問では,自分は「正直な子」「親切な子」「よく働く子」と思う子供は,ミルウォーキーで約60%,オークランドで50%,北京で40%あるのに比べて,日本では約10%前後しかないという結果であった。

一般に欧米諸国の人々は,自己に対する評価が高く,アジアの中でも特に日本は自己評価が低いということが言えよう。文部省は,この結果を子供の個性が大切にされていない結果であり,駄目なところを責めるより,良いところを増やしていくことが大切であると分析している。ようするに叱るよりほめて育てよということである。

しかし,日本の子供たちは欧米の子供たちより,不正直で不まじめで,親の期待にも添えない子供ばかりなのであろうか。少年の犯罪率から見れば,明らかに日本の子供たちの方が,犯罪を犯さないことは事実であり,また小中学校の大部分の児童生徒は、学習や清掃活動に真面目に取り組んでいる。そして欧米の子供の実態と,8割の親が満足しているという親たちの評価は明らかに一致していない。これはどう考えたらよいのだろう。