2015年5月28日木曜日

無神論者とはなにか イスラム風刺と表現の自由


フランスの出版会社が、イスラム教をおちょくる風刺画を掲載したため、報復され、またそれに対して表現の自由を守れと、ヨーロッパが盛り上がっているとか何とか。

日本人にとっては、何やら違和感を感じる流れである。

どこに違和感を感じるかというと、日本人の基本的感覚として、人が大切に、神聖にしているものは、自分はそう感じなくとも尊重するいう感覚がある。

あの風刺画にはそういう感覚は全く感じられず、あのアラーをおちょくる風刺画は、風刺というより下品で、便所の落書きに近い物である。ウィットもユーモアも感じない。

あれでは、イスラム教徒は激怒するのも当然だし、ヨーロッパが騒ぐような「表現の自由」とは別次元の問題である。


あの出版社は「無神論者」であったらしい。
ヨーロッパの無神論者は、実存主義やその兄弟である共産主義の流れをひくものである。マルクスの「宗教はアヘン」という言葉は有名だが、彼らにとって宗教とか神とかは「全くの虚構」であり「人々をまどわす害毒」でしかないと心底考えている。そして宗教などというものを信じている人たちは「無知蒙昧」で「野蛮な人」ととらえている。
こういう考え方の裏には、自分たちこそ「真の知識人」であり、「進んだ考えを持つ者」という一種の選民意識とエリート意識があることがわかる。
※宗教という言葉を資本主義と読み替えると、共産主義者の体質がよくわかる。

こういう人たちが、宗教を信じている人を見ると「愚かな人」「馬鹿げた人」としかとらえられない。だから、平気であのような風刺画が描けるのである。
今回はイスラム教をおちょくったが、イエス・キリストにもひどい風刺画を描いている。彼らにとっては、すべての宗教が対象なのである。
しかし、宗教と対立するように見える無神論者たちも、実は「無神論」を絶対として宗教者を批判し、宗教の価値観そのものを否定している様子を見ると、結局、彼らもキリスト教などの一神教的価値観の住人であることがわかる。

欧米人の主張(自由、平等などの基本的人権、民主主義という価値観から死刑廃止論議、心臓移植に至るまで)には、常にキリスト教的価値観が潜んでいることを、忘れてはいけない。
しかし、表に出る主張は、グローバルとか、国際化などという、いかにも普遍的に感じる衣をかぶってくるのが通常である。

これらにまどわされることなく、日本人は、冷静に自分の意見を主張したいものである。



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