2015年6月23日火曜日

日本の仏教① 法事に行って

法事に行ってきた。

例のようにお坊さんからお経をもらい、最後に説教を聞く。(ちなみに浄土真宗である)

何事もない日常の風景である。

お布施の額により、あげるお経がかわることは、特に何も思わない。
※仏説阿弥陀経て、あんなに短かったっけ。若いころに聞いたときには、もっと長かった気がするのは年のせいか。それとも長いバージョンと短いバージョンがあるのか?

しかし、その後のお説教を聴きながら、既成の仏教はこれで大丈夫なのかねとは、いつも思う。

 「阿弥陀仏のおかげで・・・」「生かされているという自覚・・・・」等という言葉は、心のどこにも入っては来ない。昔は、お坊さん=知識人ということがあり、そういう立場の人からの話は、新鮮でありがたかったのだろうと思うが、現代の人に、あの話では、どうしようもないと思う。一度、お坊さんにご自分のおっしゃっている内容を本当に信じているのかと聞いてみたいが、それも野暮というものではあろう。

今は、そんな話でも切りのいい時間で上手に終わってくれればいいと思っているが、たまに独りよがりの話を悦に入って長々と話す人がある。
※人からあまり批判を受けにくい立場の人は、独りよがりで、大した力もないのに尊大な態度と考え方を身につけやすい。お坊さんの他、医者、弁護士、大学の教授、マスコミ関係者も同様である。 お坊さんは、この中ではまだよい方である。

檀家制度で守られているうちに、宗教のいのちとも言うべき、人々の心を救うという真摯な炎が衰えていったことも、それを特に批判しようという感じもないし、たぶん日本の仏教は死者を弔い、死者を亡くした人を慰めるという分野を担当して、これからも生き残ってはいくのだろうと思っているだけなのだが、生きている人の救いという点では、今の教えでは、どうにもならないという感じはある。
いくら阿弥陀仏様が救ってくださると力説しても、何人の人が「ああ、そうだなあ ありがたいなあ」と思うだろう。たぶん、ほとんどだれも思わないでしょう?

そもそも、浄土真宗を現代の視点で分析して、「親鸞上人が聞こえたという阿弥陀仏の声は、人間には良心というものがあってね、これは心理学的に言うと超自我に該当し・・・。」と始めてしまえば、浄土真宗の教義自体が崩壊してしまう。

親鸞上人のように、徹底的に物事を突き詰めて考える人でないと、仏の声なんて聞こえませんよね。ご自身も、この教え自体、自分のためにだけに存在したというようなことを言われている。阿弥陀仏は、あの時代の親鸞の心には、確かに存在しえたのであるが、現在では、その教え自体が時代の要請に耐えられない。

結局、日本の既成の仏教は、檀家制度というのを持ってしまったこと、死者を弔う分野を主な活動にしてしまったため、緩慢なる衰退の道をたどっていくことになるのだが、たぶん、生ぬるいこの環境から抜け出て、時代の要請に応じながら、生きている人々の救いになるように変化していこうとするエネルギーはないと思われる。

で、結局、結論のない文章ですね。
要するに言いたいことは、今の状態で別にかまわないのだけど、お説教をされるのなら、もう少し内容と時間を考えるといいよねとか、院号一つに何十万とか、お経の内容と時間をお布施の金額で変えたりするのもいいけど、それなりに限度を心得なさいよとか、法事をすると、寺までの送り迎えは当然みたいな態度や持ち物を人に持たせるような時代じゃもうないんじゃないの・・ということで、親鸞上人の名を講話に頻繁に出されるなら、もう一度、教行信証かせめて歎異抄でいいので読み返して、今の浄土真宗の状態を親鸞上人ならどう見られるのかという観点で、振り返るのは大切じゃないですかということですかね。













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