2015年10月28日水曜日

日本の仏教② 葬式に参列して思うこと

ご近所にご不幸があったので、通夜、葬式に参列してきました。荘厳な雰囲気の中、滞りなく行われていきました。

浄土真宗によるものである。

というか、私の地域では、浄土真宗によるものが大半である。

昔からの浄土真宗王国なのである。

しかし私は父親を若いうちに亡くしたため、家の代表として会葬の機会も多く、天台宗や浄土宗など他の宗派の葬儀も経験はしている。

そこで他宗派と比較すると、浄土真宗の葬式は、よく言えば簡素、悪く言えば素っ気ない感じがする。



そもそも、浄土真宗においては、阿弥陀仏によって人間は既に救われている。既に救われていることに気付き、ありがたいと思ったら、その感謝の気持ちが「南無阿弥陀仏」という声になって出るだろう?という考えである。
そのため開祖親鸞聖人は、葬式を丁寧にやろうが、質素にやろうが、それは亡くなった人には直接関係しない。別にお経も必要ない。なぜなら既に救われているからであると考えていたはずである。
ただ、普通の人間は、それだけでは何か満足できない部分が残るので、後に葬式ではお経を唱え、お坊さんはきんきらの衣を羽織り、中には高い帽子(とは言わないと思いますが、何か頭につけますよね)をかぶり、それはそれはありがたい事になってくるわけである。
しかし、基本的には先に書いたような意識があるので、他の宗派に比べると、何か素っ気ない感じの葬式になるのであろう。

一方、天台宗の葬式では、是が非でもこの密教の力を持って死者をなんとか仏にするぞという情熱のようなものを感じるし、浄土宗は死者を優しく弔うという感じが強い。これはたぶん法然上人が大変穏やかで優しい人だったからではないかと思う。

親鸞聖人は、物事をとことん突き詰めて考える人だったようで、そういう厳しさというか純粋さというものが葬式にもでているわけですね。

私自身は浄土真宗であるが、浄土宗の持つ穏やかさと暖かさにひかれるものがある。
そこで葬式は浄土宗でしてくれなんてことは可能なのであろうか。

事前に浄土宗のお坊さんが友達で後を頼めたとしても、いざ葬式となると親族は「なんだってえ」となり、家のお寺のお坊さんと浄土宗のお坊さんが鉢合わせして、何やら大混乱が起きることは簡単に予想できる。

日本においては信教の自由はあるものの、通夜・葬式においてはそんなものは無いということですね。





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