2014年6月28日土曜日

科学という学問②  「信じる」という言葉を科学者は使ってはいけない

 科学という学問は、西洋で発達した学問だが、キリスト教と密接な関係がある。

※ここでいう「科学は西洋で発達した」という意味は、科学的な発見、発明をさしているのではない。科学的な発見自体は、世界中に昔から存在する。科学という学問の持つ基本的な考え方を、現象を解釈する学問として成立させたのは、西洋人であるという意味である。

 普通、科学と宗教は対立する概念と思われているが、
西洋の場合、科学はキリスト教を母体に発達してきたという面があり、対立しているようでそうでもないという複雑な関係がある。

現在の物理学者や天文学者でも、物質の(または宇宙の)究極の姿があらわになった時に、そこに「神」の真理も見えてくると考えている人は、普通にいる。

しかし、そのような科学者が、決して使わない言葉がある。それは「信じる」という言葉である。


日本の科学者は、平気でこのようなことを言う。
 「この現象は存在すると信じる」

 

「信じる」という行為には、「疑い」が必ず混ざっている

1+1=2であることを「信じる」とは言わない。
1+1=2であることは「わかっている」と言う。

明日の天気は、晴れると「信じたい」と言う。
明日の天気は、晴れることは「わかっている」とは言わない。

友達に
  お前が、盗んだのではないことは「わかっている」
  お前が、盗んだのではないことを「信じる」
どちらの言葉を言って欲しいか。

あきらかに、一片の疑いもなく真実もしくは事実であると言う場合は「わかっている」と言う。
疑おうと思えば、疑える要素(言い換えれば曖昧な要素)はあるが、他の要素から考えて、彼は盗んでいないと思いたい時に「信じる」という言葉を使うのである。

もともと信じるという言葉は、宗教で頻繁に使用される。

神という存在は、もともと非合理的である。
神が、全てを創造したと言う。

阿弥陀仏は全てを救うと言う。

だれも見た人はいないし、存在を疑おうと思えば、いくらでも疑える。

そういう疑惑の溝を跳びこえる行為が「信じる」という行為なのである。
だから宗教は、「信仰」という言葉を使う。

一方、科学は、現象の真実や道理を、実験と観察を通して明らかにする学問である。
実験と観察を通して、科学者が最後に使う言葉は、道理を明らかにし、「その現象は存在する」か「その現象は存在しない」かだけである。曖昧な部分が残る場合は、さらに実験と観察を通して真実を明らかにするのが科学の使命である。
 

「信じる」という言葉を使った時点で、曖昧な部分=疑いの部分があるのに、それを残していることを意味している。
それを平気で使う日本の科学者は、明らかに科学者の名に値しない。

先に書いた、キリスト教徒と科学者という立場を両立させている物理学者は、あくまで科学の立場で、神の存在を立証しようと考えている。
たぶん彼の内面のどこかに「神の存在を信じたい」という思いはあり、それは幼少期にすり込まれた意識であろうが、キリスト教徒の立場と科学者の立場を混同することはしないのは、科学という学問の本質をよくわきまえているからだろう。

 
「科学」に限らず、「自由」「平等」「人権」と言う概念は、西洋人がキリスト教との関係の中から、考え出してきたものなのだが、日本人は(西洋人以外は)、未だにそれらの概念の歴史的背景や、その本質がわかっていないところがあり、それぞれの立場の人が、自分に都合よく解釈し、言葉を振り回して使用しているところがある。

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