2017年5月18日木曜日

「命の授業」をやってはいけない理由 900日 (豚のPちゃんと32人の小学生)

だいぶ前の話ですが、小学生に豚を飼わせ、大きくなったら屠殺し、肉を食べることにより、命の大切さを感じさせるという授業が話題になったことがありました。
さらにこの先生は実践したことを「命の授業 900日 豚のPちゃんと32人の小学生」という本にしている。また映画にもなり、それは私も見たことがある。

映画や本を児童・生徒に見させ、命について考えさせるのはいいとしても、実際、このようなことを子どもにさせることは反対である。
それは、以下の理由による。


一般に、動物を飼うという行為は、次の二種類に分けられる。
①家畜として飼う
②ペットとして飼う
(③見せるために飼う 動物園など というのもあるが、本主旨とは離れるので触れません)

牛や豚の肥育農家は、家畜を大変可愛がる。常に体調管理に気を遣い、予防注射までして大切に育てる。
そしてブラッシングをしながら「大きくなるんだよ、立派なお肉になれよ」と思い育てる。
そういう(正直、私には実感はできないのだが)独特の感覚で育てているので、時期が来たら笑顔で屠殺場に出荷できるのである。家畜の飼育は、それで当たり前である。


ところで、子どもたちに動物を飼育させたら、①と②のどちらの感覚で育てていくだろうか。

言うまでもなく、当然②のペットとして可愛がるのである。
その時、「家畜として飼いなさい」という指示をしても無駄であろう。

そして、「ペットとして育てた豚を、殺して食べる」という行為は、大変、異様で残酷な行為だと思う。

世の中には豚をペットとして飼っている人もいるが、大きくなったら食べようとする人はだれもいない。これは世界中、同じ感覚であろう。ペットとして飼うというのはそういうことである。

肥育農家は牛豚を決してペットとしては飼わない。飼わないからこそ出荷できるのである。

この授業を受けた子どもは、一生消えない心の傷を負った可能性があると思う。

この授業で、学べることとリスクを比べると、そのリスク自体、破壊的すぎると感じる。
授業で新しい試みをやってみることは大切である。しかし実践の際には十分すぎる検討が必要であろう。やってから「しまった」では終わらない場合があるのである。
事後に意義は何とでもつけられようが、「思慮に欠けた授業」という印象はぬぐえない。

命の大切さを感じさせたいのなら、鳥やうさぎでいいので、動物の世話を継続的に続ければよい。

鳥やうさぎはそのうち死を迎える。
いつものように、小屋に入り餌をやろうとしたら死んでいる。目を閉じ、足を突っ張り、その体の軽さに驚く。昨日までは元気だったのに。

そういう場面に何度が遭遇するなかで、自然と「命のはかなさ」と「命の大切さ」を身につけていくのではないだろうか。教育とは本来、地道な積み重ねであり、それが成長につながるのである。

 
話題になった授業だが、それを後追い実践した先生はいなかったと思う。だれもが不自然さを感じたのであろう。先生方の感覚の健全さを感じさせる。

またこの授業を行った先生は、その後、大学の教授になったという。「自分が何か取り返しの付かないことを子どもにしてしまったのではないか」という思いは今もないだろう。
そしてそのような教授が、何を大学生に教えているのだろう。

実践の場を離れ大学にもどったことは、子どもにとっても現場の先生方にとっても、良かったと思う。







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