2017年6月9日金曜日

曖昧な宗教的空間を漂う日本人について

「宗教というものを、心の底から信じきることができる人は、少し、生きることが楽になるかもしれない」と思ったことが、何回かある。

私自身は、墓参りもするし、法事も忘れずにおこなう。神社に行けば手も合わせる。
しかし、基本的には日本的な神的雰囲気のなかで漂いながら、それにあらがうほどの信念もなく、また反対に何かを熱心に信仰することもしない人間である。どちらかというと不信心な部類の人間であろう。


キリスト教徒から見ると、日本人の信仰は不思議というか、本当の意味での信仰心は持っていない人たちと見えるだろう。


キリスト教徒には「神を、試してはならない」という言葉がある。
条件を付けた信仰は信仰ではないということである。
例えば「私をお救い下さい。もしお救い下されば、大きな聖堂を建てます。」とか「毎日、祈りをささげるようにいたします。ですから私の望みをかなえてください」というたぐいのものである。

「何かをするので、私は信じます」というのは、信仰に条件をつけていることになる。神に取引を持ちかけているわけである。

キリスト教徒はこういうことを嫌う。信仰の純粋性が損なわれるからである。

神は、あなたに何かを命ずるかも知れない。しかし、何も命じないかも知れない。すべては神の御心である。「なにかを」という条件を一切付けず、ただ「神の存在」を「信ずる」のである。
それが信仰という行為である。


こういう神と一対一で対峙しながら、厳しく純粋に信仰を深めるキリスト教徒の目から見れば、「文化が違うんですよ」とは言いたいものの、日本人の様子はただただ無邪気としか思えないだろう。

初詣に行って
「昨年はお賽銭100円だったけど、今年は奮発しちゃおうかなあ。いいことありますように」
「どうだい、この熊手、でかいだろう。これでガサガサと福を集めるんよ」
「今年はこの神社は行かないぞ、ちっともいいことなかった。気分直しで今年は○○神社へ行こう」
「今年は、受験なので、受験は○○神社かなあ」

まあ、「神を試してはならない」どこの騒ぎではない。
日本人が神に求めるのは「御利益」そのもので、それが感じられなければ、別の神様に頼むまでというありさまである。

西洋人が見れば、「これは信仰とは言わない。幼き考え方をするものたちよ。」と感じるだろう。戦前、西洋人がアジア系を子ども扱いしたことがあるが、これは体格的なことに加え、こういう信仰形態を見て感じたことも大きいと思う。

世界的に見ると宗教はまだまだ健在である。




特にイスラム教において信仰は深く根付いている。キリスト教ともまだまだ健在である。

資料を見ると、日本人は、神も死後の世界も、「存在する」「存在しない」「わからない」というのが1/3ずつという特異な分布を示している。世界的に見ても、「わからないことは判断できない」という項目が高い日本人は、宗教に対しても客観的見方をしている民族と言えるかも知れない。
しかし、「存在しない」「わからない」と言っている人も何かあればその何割かは、神様を拝むのではないかと思う。たぶん日本人のほとんどは、あいまいな信仰心を持っており、西洋的な意味で言う無神論者は、まずいないと思う。

そしてベトナム人の「神、死後の世界は存在しない」の高さは際立っている。共産主義の影響というよリ、ベトナム戦争の影響だろうか。


次の資料は、もう少し詳細に各国民の意識を調査している。
中身に見る前に、特に⑥の項目について少し捕捉をしておきたい。



よく「私は、神を信じている。一片の疑いも持ったことはない」という言い方があるが、これは言い方自体に矛盾がある。(以下は川原栄峰氏の受けうりです)

「信じる」という言葉を使うのは「疑っている」からである。

私たちは
「1+1はは2である」ことは(   )
「地球は球体である」ことは(   )
「私は人間である」ことは(    )
の(    )にはいずれも(わかっている)がはいる。ここに(信じる)という言葉を入れる人はいない。
一点の疑惑の余地もなく明白なことに対しては「わかっている」「知っている」というのである。

しかし、「君がそんな罪を犯す人でない事を信じている」という言い方はある。この場合、「この人は、やった可能性もあるが、、普段の行動から見てそんなことをする人とは思えない」時に出てくる言葉である。疑いはあるが、それを飛び越す心的決断が「信じる」という行為なのである。
だから、「神」とか「救い」という概念を扱う宗教には、信じるという言葉が頻繁に出てくる。そして「信じる」という行為の難しさと「決断」との関係も繰り返し語られる。

もし先の例で、疑問点もないのなら「君が犯人でないことは、わかっている」と言うだろう。


こういう信仰の強度を綿密に見るため、この調査項目⑥「神がいることは知っている」という項目がはいっているのだろう。ただ、であるならば「①神の存在を信じない」の前に「神は存在しないことは知っており、神が存在しないことに何の疑いも持っていない」という項目も必要だと思うが、こういう項目は立てるのに、やはりためらいがあるのかも知れない。

この調査でも、多くの日本人は「神はいるかもしれないし、いないかもしれない」「神を信じる時もあるし信じない時もある」というファジーな領域に漂っていることがわかる。

たぶん日本人の半分以上の人は、「死んだらたぶんそれで終わりだよなあ。まあ考えてもわからないし。何か死後の世界があれば、いいかなあって感じかな」そして「苦しい時は神頼みをするしかないなあ」という感じであろう。 
確かに死んで生き返った人などいないのだから、死んだ後のことなどわからないし、考えてもしかたがないというのは、孔子もよく似たことを言ってる。ある意味、合理的な態度といえるのかもしれない。

ただ一方、宗教が冷静な目で見られるというのはどうなんでしょう。この調査結果は、既成の宗教が人々の苦しみを救うよすがとなっていない現状も示しているように思う。

確かに、現在の社会でお坊さんから「阿弥陀如来は、すべての衆生を救ってくださるのです」と説かれても、、まさか「お坊様はどう感じているのですか、阿弥陀の救いを本当に信じているのですか」と聞き返すわけにもいかず、正直、どう反応していいか戸惑いながらも、お坊さんには失礼な言い方だが、聞き流しているというのが本当のところだろう。
しかしキリスト教やイスラム教の「神は、あなたを救済する」という言葉は、今だ宗教的な力を保っている。この違いは何故なのだろう。

日本の場合は、織田信長が、宗教から戦闘力(物理的にも心理的にも)を奪い、その後、檀家制度でさらに骨抜きにされたことが、日本の宗教から「人々の救い」という使命感をも奪ってしまったのは間違いないところだろう。もともと日本人は宗教を功利的に扱う傾向があるが、江戸時代以降はさらにこの傾向が強くなったように思う。

しかし、こういうファジーな領域を漂い続ける民族は、精神的に不安定になりやすいはずである。
確かに日本人の自殺率は昔から高い。ただ日本には「死を持って責任をあがなう」という文化があり、自殺率の高さ=精神的な不安定さとは言い切れない。むしろ、鬱病などの精神疾患率は、先進諸国のなかでは低い方なのである。

またキリスト教やイスラム教では自殺は「禁忌」事項なのだが、それでも自殺率の高い国はある。また神や死後の世界を信じるが故に、自殺率が高くなるという可能性もあるので、宗教で「心の救い」を得ているかどうかは、自殺率ではわからない。

日本人は、宗教以外の「救いの場」や災害の多い国土に住むことのよって、不安定さに耐えていける「心の持ちよう」を文化として発達させてきたのかも知れません。

ベトナム人は、神を信じない民族ですが、自殺率などは117位(5人/10万人で低いです。ベトナムには、宗教以外の「救いの場」が残されているのか、長い長い紛争・戦争を勝ち抜く過程で、どんなに信仰が深くとも浅くとも関係なしに、爆弾は人々の命をあっけなく奪う有様を見て、超現実主義者になったのでしょうか。

ひよっとしたら、ベトナムは、元との戦いやインドシナ紛争、ベトナム戦争、中越紛争でもわかるように、根本的に精神的に粘り強く、神を必要としない民族なのかもしれません。






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