2012年7月5日木曜日

武道と人格 その二

   若い時は、武道の黒帯というと、何か仰ぎ見るような感じで、人格的にも尊敬の対象であった。それが、年を取るにつれて、そういう過剰な思いは薄れていった。今は「武道をやることと人格完成はほとんど関係がない」「武道を続けて人格の完成が進んだ人は、他のことをしていても人格を向上させられたであろう」と思っている。

  ある論文を見ていたら「『サッカーをしているとルールの大切さを理解し、よき社会人となる』という言葉があるが、現実のスポーツは決してそうではない。結局、スポーツでルールやフェアプレーの大切さ協調するのは、それを守らなければ競技が成立しなくなるからである。」という一文があった。確かにそうなのだろうと思う。

  武道でもスポーツでも、それ自体に人格完成の要素があるわけではない。ただ漫然と競技をやって身につくことは、バスケットなら籠に上手にボールを入れる技術であり、剣道なら、相手の頭や胴を早く竹の棒で叩く技術でしかない。

  武道は、剣道にせよ柔道にせよ一枚皮を剥いでしまえば、獣然とした殺伐とした命のやりとりが本質である。特に武道において人格の完成が強く言われるのは、それを強調しないと、ただの殺し合いになってしまうからだろう。ただそういう厳しい競技だからこそ、相手への思いやりや高い人格に到達する可能性というものが、スポーツよりも高いという面もあるが、反面、武道を長年やっていて獣のような人物がいても不思議ではない。

  結局、指導者が武道やスポーツという素材を使って、どういう考えで指導をするかが重要になってくるのだが、特に子供への指導という面では、本当にその指導が子供のためになっているのかと言わざるを得ない場面が多すぎるように思う。

2 件のコメント:

  1. 武道関連のエントリー,たいへん興味深く読ませていただいております。特に少林寺拳法の記事には感銘いたしました。今後も書き続けてください。ときどきのぞきに参ります。

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  2. 武道の人格形成なんてただの詭弁です。
    殺人術でありただの暴力でしかない。

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