合気道は、謎の多い武道である。いまだに最強伝説から、ただの踊り、健康体操説まである。評価の定まらない武道なのである。
私もこれまでに何度か合気道を始めたいと思った。学生時代には、いくつかの道場を見学したし、その後も、ネットで道場を検索したりホームページをのぞいて見たりしていたのだが、結局始めることはなかった。
原因は、「あんな無防備に体ごと突いてくる人なんていないよなあ」「なんで、簡単に誘導されるんだ」という素朴な疑問が去らなかったからである。
全体的に攻撃の想定が甘いというか何を想定しているのかもわからない。伝統空手の圧倒的に早い上段突きのつっこみ、柔道の掴んでからの技の入りのスピード、ボクシングの多彩なコンビネーション、いずれもさばけないだろうと感じた。
しかし、これは入門して実際、経験しなければ結論は出ないことでもある。
ただ決定的だったのは、先生が触れもせずに、なにやら「ふうううん」と気合いをかけると弟子がひっくりかえったり、十名近い弟子を、なにやら手首のちょこんとした一ひねりで全員を転かしてしまうシーンを見てしまったからだと思う。こういうものを道場でやってみせるならまだしも、合気道の公式な大会でやるのは、合気道のためにも良くないように思う。
こういうシーンを見て「凄い」と思う人もいるようだが、私は、弟子の人たちに対して「かわいそう」という感想しかわかない。これを「やらせ」と言う人もいるが、「やらせ」ではないが「刷り込み」ではあると思う。少林寺拳法でもあることなのだが、何度も技の練習をしていると、技をかけられる方も体が自然とそう動いてしまうのである。また、何回も叩かれたことのある人は、こちらが手をあげて殴る雰囲気を出しただけで、目をしばたかせ、体を丸め防御態勢に入り、いかにも叩かれたかのような様子さえ示す。
一種の条件反射、催眠の一種なのである。また師弟関係というものは重いもので、長年お世話になっている先生を、公の場で恥をかかせるわけにはいかないという心理も当然働くと思われる。
できるというなら、総合格闘技をばりばりやっている若者に、手を触れてもいいので、吹っ飛ばしたり、また手をかざしただけで、いわゆる「気」とやらで動けなくして欲しいものである。
たぶん若者に接触しようとした瞬間、反撃されて終わりだと思います。打撃系(関節系もですが)格闘技は、戦後急速に発展と変貌を遂げているので、合気道はその変化に対応できないと思います。
また「私の顔を右手でついてみなさい」「両手をがっしり握ってみなさい」「この手を握ろうとしてみなさい」なんていう場面もよく見ますが、これは誘導でしかありません。誘導には肉体的誘導、心理的誘導の両方がありますが、「手を握ろうとしてみてください」というのは心理的な側面が強いですね。これらはただの約束組み手です。さばけて当たり前です。
なかには、こんなことばっかりやっていて、先生自身が根拠のない変な自信を持ってしまっている場合もある。格闘の世界といっても結構狭く、閉鎖的だと言うことがわかる。
最近、合気道について次のような記述を見つけた。納得できる内容だったので、要約して紹介したい。原文は「合気道はなぜ弱い」で検索してください。
合気道が弱い理由
①今の合気道の稽古は「強さの追求」をせずに「理想の追求」を行っていること。「理想の追求」とは「いかに力を使わずに人間を取り押さえるか」というもので、そのため力で相手を抑えても合気道ができたことにはならないという考え方ができてまったこと。
②なぜそうなったのかというと、現在の合気道の練習方法、力を使わない自然で流れるような技のかけ方は、戦前はあくまで達人が「余興」でやったものであり、これは技ができるようになれば、「こうすると力を使わずに相手を倒せる」とか「こうすると力のぶつかり合いをさけられる」といった”遊び” にすぎないのに、戦後はそれをすることが練習だと思って、そればかりやるようになった。かからなかったら力づくでもかけるのが本来のあり方で、そのため、戦前の先生は力も強く、稽古も、骨折など当たり前だったこと。
③スパーリングをしないこと。
合気道は型稽古であり、技をかける人もかけられる人もすべて動きが決まっている。「受け方」さえも決まっており、不測の動きをすることはない。そのため型稽古というものはどうしても「やらせ」になってしまう側面があること。そのため10年~20年稽古をしている人の技でも、受けが力めばかからない。
←(本当にこう書いてあった。他の人のプログでも、「受け手がそう動いてやらないと、まずかからない」というのやら、「高段者同士の指導稽古で、受け手の先生が掛け手の先生に『あなたは何をしようとしているのだ』と怒ったという話がある。ようするに掛け手が何の技をかけるかわからないと、高段者でも受け手はうけられないということである。
さらに酷いのは、「合気道は素人にはきまらない、きれいに技がかからない」などという記述さえある。さすがにこれには反論があり、「素人に技をきちんとかけると、骨折してしまうのです。技を知っているから上手に怪我をしないように動くようになるのです。」と一見なるほどと思わせるような言葉がかかれているが、本当の初心者で腕も細い女の子なら、瞬間に本気でかければ、はずみで骨折もありえるが、普通の成人男子であれば、手を持たれ誘導されそうになった瞬間に、手をひいてしまうのが普通だろう。中には関節技をかけられ「いててて」と言う人もいるでしょうが、それでも体を密着させて逃れようとうとすると思いますよ。せいぜいで関節を少し痛めるぐらいで、大したことはおきませんよ。それに、運動の経験のある、鍛えた筋肉が十分ついている人には、まずかからない思います。うまくいかないので、へんに手首をこね回して、痛めさせてしまうことは考えられますが、「初心者に技をかけると骨折など怪我をさせてしまう」と書いてしまう心がね・・・。
ただし先に書いてあるような誘導 をすれば別ですが。
ここは合気道をしている人にとっては痛いところらしく、ようするに、そういうことなんですね)
④合気道は実戦では当て七割、投げ三割と言われており、当時の稽古スタイルは、打撃メインで、間合いによっては組み技も行うという今でいう、総合格闘技から寝技を除いたようなものだった。戦後、それを捨ててしまい、三割の投げばかりになってしまったこと。そして当ては、投げにはいるための予備動作のようになってしまっていること。
という内容でした。
どの武道にも優劣はない。そして長年、武道に真剣に打ち込んでいる人に対しては、本当に頭が下がる。しかしどの武道にも特有の長所と欠点があるのも事実である。合気道自体は、日本武道の神髄といったところがあるのだが、どうも現在の合気道は、本来のあり方からは、かなり遠いところに来ているようである。そして現在のあり方を是とする人と非とする人がいるのは、これはどの武道でも共通のことであろう。
「合気道なんてただの踊り、役に立たない」という書き込みをする人がいる。こういう書き込み自体、誹謗中傷の類であり、失礼だと思うが、これに対して「そうじゃない、養神館の修行は、警官も採用し云々」「実戦というものを君はどう考えているのか」「合気というものはそもそも・・・・」などなど長文の反論が山のようにくるようである。合気道をしておられる人は、知的水準の高い人が多いのかもしれないが、そういう意味では特に武道界中では饒舌である。しかしこのように長文の反論を書かざるを得ないこと自体、合気道の弱い部分を示しているように思う。
少林寺拳法では、「気」とか「呼吸力」とかいう概念は徹底的に排除されている。練習でも指導書にも全くその手のことは聞いたことはなかった。神秘的なことを排除し合理性を重んじた開祖の考えの表れであり、また共感できる部分なのだが、一方、演武系の武道共通の問題として、これらの指摘には考えさせられるところがある。
他山の石としたいところである。
「やらせ」は少し言い過ぎかもしれませんが、60年間合気道を続けた方のブログにこんなことがかかれていました。
返信削除>「抵抗したら合気道じゃないよ!」「調和が大切だよ!」。
>一方では「合気道ではルールがない、だから試合はできない」、
>と言いながら、他方では「それは合気道じゃない!」とは?
>と不思議に思っていました。
http://eikouwokataru.blog.fc2.com/blog-entry-10.html
入門者は誰しもある種の「違和感」を覚えるように思います。