2012年7月3日火曜日

武道と人格 その一 

    職業的な武道家のなかには、人格的な欠点があるとしか思えない人間がいるのは事実である。武道をやろうという人間は、最初からある種の劣等感が強かったり、過激なまでの攻撃性を持っていたりする事が多く、一種の人格的な偏りが武道を目ざすきっかけとなっているためであろう。

    武道の効果とはどういうものがあるのであろう。
例えば、自信が持てるようになるとよく言われる。確かに、人前に出る時に何となくおどおどしていた人間は、フルコンタクト系をやりこむと、印象がかわってくることがある。フルコンタクトでは組手で常に人と近距離で対して殴る蹴るという行為を繰り返すので、人に対することに慣れてくる。そのため表面的には、社会の中で人と対しても以前のようにおどおどした感じはなくなるのは事実である。これだけでも武道の効果はあると言える。

    しかし、人が人と接するのは、別に常に殴り合いをするため接するわけではない。
人と接する時には、折衝・駆け引き、相手の心を読む、意見を言う、納得させる、説得する等、様々な場面がある。

    確かに、武道をやりこむと落ち着いて相手を見て話が出来るようになるが、その次には、話す内容自体が問われることになる。この時点で話す内容が貧弱なものであれば、やはり相手に圧倒されてしまうだろう。

 そういうことが繰り返されれば、表面的には堂々としていても、結局、内面的にはおどおどした状態に戻ってしまう。相手が脅しを絡めてきたり、直接暴力をふるうようになれば、武道は直接的に有効であるが、そんな場面は、まずごくまれである。相手に圧倒されるという要素は、単に肉体的な優位や気迫、根性などといったもの(そういう要素はないとは言えないが)だけではない。人間としての総合力が問われるのである。

    また自己コントロール能力についてアンケートを取ると、普通の運動をしている人に比べ、武道を修めている人の方が、自己コントロール能力が低いという結果がでている。簡単に言うと武道をしている人の方が、自分の欲望を抑えられず、言わば気ままな人が多いという事である。
    そうかもしれないなと思う。劣等感が強く、それまで自分を押さえていた(というより押さえられていた)人が、へたに腕力がついてくるので、人に言うことをきかせようという感じが強くなって、自分の我慢をしなくなるのだろう。武道をおこなう一つの落とし穴である。

 このような事情で、職業的武道家のなかには、結局、社会の中で生きていくことが出来ず、狭い自分の世界だけで、大きな顔をして、人に「生き方」や「道」をとく人間がいる。また劣等感が残っているのか、練習・指導の名の下で、門下生を過度に痛めつける「先生」もいる。少林寺拳法の開祖は、そういう職業的武道家の姿を鋭く見抜いていたのだと思う。人生で生きるためには、多くの複雑な要素が必要なのだということを、よく理解していたのだろう。

2 件のコメント:

  1. ここにあることと違う意見のコメントでものせてもらえますか?

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    1. チェックが遅くなり申し訳ありません。
      この文章は、たぶん今から約30年前?、ちょうど極真会が分裂し、ご遺族と訴訟を起こしたりとか、何やらもめていた時に、「いったい何やってるんだ」という武道に対して不信のようなものを感じていた時に書いた文章をそのままアップしたものです。
      今読み返すと、言葉遣い等も不穏当で生意気な文章ですね。
      現在書くならまたニュアンスが違った書き方にはなるだろうと思います。

      いろいろご意見はあるものと思います。どうぞお書き下さい。
      チェックが遅くなることもありましたら、そこはご容赦下さい。

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