2016年2月19日金曜日

興福寺 阿修羅像は何故子どもの顔をしているのか


阿修羅像は「憤怒の形相」で造られるのが通常である。

興福寺の阿修羅像のようなものは、他に見たことがない。
「なぜ、中学生のようなお顔なのか」という問いに対して、明確な答はどこにもないようである。

最初に書いておくと、私は、阿修羅像にかかわらず、仏像全体に特別な思い入れはない。小学生の頃に初めて阿修羅像を見たが、感想は
「うぇーー気持ち悪い。」
「手が何本も生えているぞお!!!」
「顔がたくさんある!!!」
「なんだこれは?」・・。

何か異様なものを見てしまったという、今で言うSFX映画を鑑賞した感覚である。今もこの感覚は少し残っている。

随筆家は、仏像に過剰な思い入れをもって接する時があり、あまりの思いの濃さに読んでいて辟易する場面も多い。
私は阿修羅像を含め、どのような仏像を見ても、あまり感情が動かない。宗教心がなく、仏像群を美術品として見るからかも知れない。


一般に阿修羅像は次のような説明がなされている。
「古代インド神話の阿修羅王は、帝釈天を向こうに廻して、荒々しい合戦を繰り返す悪神で、容貌醜怪な札付きの外道とされています。興福寺の阿修羅像は、この神が釈迦の教化によって仏法の守護神となった姿で、天界を暴れ廻る鬼神のイメージはありません。しかしこの像をよく見ると、例えば、やや眉根を寄せた悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいものが秘められているように思えます。荒々しい心が仏の教化によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだといわれています。恐ろしい顔から浄化された顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現しています。」

この説明でも、浄化された阿修羅像は興福寺のものだけしかないこと。(ほかにありましたら教えてください) そして浄化されたのなら中年の落ち着いたお顔でよさそうなものだが、何故子どもの顔なのかということの説明にはなっていない。

興福寺西金堂は、光明皇后が前年の1月に亡くなった母橘三千代の一周忌に間に合うように創建したもので、十大弟子像や八部衆は再建当時から納められたと言われている。

そして、この十大弟子像や八部衆はどれも、お顔がどことなく子どもっぽいのが特徴である。
 
こういう仏像は、発注主の意向が反映するのが通常である。
この場合の発注主は、光明皇后であるとすれば、「こういう仏像にして欲しい」ということを、皇后は仏師に伝えていたのではないかと思う。 


光明皇后は、施薬院や悲田院などを作ったことなどから、慈悲深く優しい人だったように思われる。
きっと母親には、子どものように優しいお顔の仏像に囲まれ、安らかに眠って欲しいと願い、その結果が阿修羅像だったのではないだろうか。
形相のいかつい仏像を、このお堂に納めるのは嫌だったのだろう。

随筆家風に書くなら、阿修羅像のまなざしは、「子どもが母を見る眼差し」なのかもしれない。

※子どもが母を見る眼差しと言えば、昔からこの阿修羅像は、聖武天皇と光明皇后の子で、幼くして(一歳未満で)亡くなった基王を模したものだという説があるようである。
今の感覚では受け入れやすい説だが、この時代の人々が阿修羅という存在をどうとらえていたかということを考えると、この説は成立しにくいと思う。

阿修羅は先にも書いたように、仏教に取り入れられてからは釈迦を守護する神となるが、中身は戦闘神であり憤怒と憎悪のかたまりで「容貌醜怪な札付きの外道」であるという認識は、この当時の人々に共通してあったと考えられる。そんな中で、幼くして亡くなった自分の子どもを、あえて阿修羅像に模すことを母親がするだろうか。

自分の子に模すのなら、他に適切な仏像があると思うのだが。









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