2019年10月10日木曜日

カッチーニ「アヴェマリア」に祈りはあるのか

ひさしぶりに、チェロの記事です。タイトルが徒然cello日記なのに、違うことばかり書いてあるので、反省を含め・・。


最近、カッチーニ作(ほんとは、20世紀の人 ソ連の作曲家 ヴァヴィロフ 1925年~1973年) 「アヴェマリア」を弾いてみた。
オリジナルは何調なのでしょう? いろいろな調で弾かれている曲である。ヴォーカリーズのように、A線の高い位置でずーっと戻ってこないのも嫌なので、響きより、弾きやすさ優先で楽譜を選んだというか、聞いて覚えた。

ネットでは、この曲は絶賛の嵐という感じだが、そうなんでしょうか。三大「アヴェマリア」に挙げられているようだが、いやいや・・・。


最初は「きれいな、ええ曲やなあ」と感じるんですが、そのうち弾くのが嫌になってきました。なぜか弾いていて、宗教的な心情がわいてこないのです。それはお前に宗教心が無いからだろというのは、そーなんですが。バッハなどのそれとは、あきらかに違いがあるように感じました。
この曲は「敬虔な祈り」という要素より、むしろ、通俗的で歌謡的な要素を感じます。決して「アヴェマリア」としては、作られていないように思います。(もちろん個人的見解です)

ヴァヴィロフ(1925年~1973年)はソ連のギター、リュート奏者・作曲家で、サンクトペテルブルグ音楽院でギターと作曲を学んだようです。この「アヴェマリア」は彼のアルバム《ルネサンスのリュート音楽 1970年録音》16世紀の作者不詳の《アヴェ・マリア》としておさめられています。リュートとオルガンの伴奏で、リュートはヴァヴィロフ自身が弾いています。

ソ連という環境で作曲をする場合、難しいことが多いのは予想できます。もろに「アヴェマリア」などと曲名をつければ、即発禁、拘束でしょうね。メロディも注意しないと「資本主義的退廃」が見られると言われ、つるしあげられますからね。(でも、演奏するのはいいんですかね。確かバッハの受難曲なども演奏されてたと思いますが。宗教的背景の無いクラッシックと言いだしたら、演奏する曲目が無くなってしまいますが、そこらへんは何となく共産主義国家のご都合主義という感じもしますね。)
そんな制約下でも、プロコフィエフは「芸術」と呼べる作品を生み出していったのは大したもんだと思います。

最初、私は「ソ連の作曲家に宗教心なんかないだろ?だいたいこの人は、自作をきまって昔の作曲家、ルネサンス時代やバロック音楽の作曲家のものとして世に出している。そこに品性の低さを感じないか」などと思っていましたが、ひよっとしたらヴァヴィロフ自身、自分の作り出す音楽の通俗性に気が付いていて、余計な批判を避けるため、昔の作曲家の名前をあえて使用したのかもしれません。
きれいな音を作れる人なので、西側に生まれていれば、映画音楽あたりで有名になれたかもしれません。

いずれにせよこの曲には、宗教的な下地は無いように思います。「敬虔な祈り」を求めるなんてややこしいことは思わず、きれいなメロディを楽しめばいいのでしょうね。

ただ演奏家は、クラッシックが中心であっても、魅力的であればポピュラーな曲でも弾くもんですが、私が引っ掛かった部分で「このアヴェマリアという曲は弾かない」という演奏家は、いるだろうなと感じます。

付け加えると、通俗的で歌謡曲的なことがダメだとか言っているわけではないです。音楽に上品も下品もありません。自分が良いと思うものが、いいんですよ。
ただこの曲を「アヴェマリア」として弾くのはどうなんだろうというお話です。








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