生きていれば何事かをなしえたかもしれないし、なしえなかったかも知れない。
きちんとした評価ができる前に亡くなってしまっているのである。
地元では、「橋本左内は」などと話すと、町の古老から「橋本左内先生とよべ」とお叱りを受けるそうである。
そんな地元でも、昔から橋本左内の最期については、 触れたくない雰囲気があるらしい。処刑直後から、刑場で見苦しかったという話が出ているのである。
その情景を山本周五郎は小説『城中の霜』 で、次のように描写している。
ちょっと美化されすぎですね |
これを聞いた件の女性は「強盗殺人の罪で斬られる無頼の者は、笑いながら刑を受けると申します。それが真の勇者と申しましょうか。泣く勇気は左内さまだから出来たのです。本当の命を惜しむ武士の泪ではないでしょうか」と語ると、藩士たちは頭を垂れ、涙したと書かれている。
こういう姿は、戦後の空気の中で、これこそ人間らしい姿として賞賛されるような雰囲気も一時あった。
たぶんこちらが正確かも |
※彼は15歳の時に書いた「啓発録」が有名であるが、これも海音寺だったと思うが、当時の武士の子であれば、あの程度のことはあえて書く、書かないにかかわらず、当然のこととして意識している内容であると述べている。
20日後、同じように処刑された吉田松陰の最期は次のように描写されている。
安政6年(1859年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳という若さであった。 死に際しても平静かつ潔い松陰の姿に、首切り役の山田浅右衛門などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧した。「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
吉田松陰も弱冠30歳である。思い残すことは山のようにあったことは、残された手紙からよくわかる。しかし、最期はみごととしか言いようがない。これが武士なのである。
左内は取り調べを受けた時に、「自分の行動はすべて主命から出たもので、私心からでたものではない」という言い方をしている。これに対して井伊直弼は、「罪を藩主にかぶせようとしている」として、武士としてあるまじき態度と思ったようである。この時の橋本に対する悪印象が、「遠島」となっていた判決を「死罪」に、井伊自らが書き換える動機となったのではないかと思っている。
こういう場合は、桜田門外の変にかかわった水戸藩士たちの多くがそうであったように、藩主をかばって「何事も自分の意思でおこなったもの」と罪をひきうけようとするのが、武士としての心得である。
やはり、秀才ではあっても、武士としての自覚は足らなかったものと思われる。
実は、橋本左内は身分は藩医、医者である。
家の教育も、そちらに重点がおかれていたのだろう。
書かれたのは戦後ではありません。
返信削除「現代」昭和15年4月号、戦中ただ中です。
ご指摘ありがとうございます。
削除戦時色の強い時代、「ことあれば、いさぎよく花と散れ」という教育がなされていた時代に、あえてあの小説を世に出したことに、山本周五郎の心情の「なにものか」を感じさせられました。