2016年11月4日金曜日

ドイツ人の気質とVW社排ガス問題

ドイツの車に乗ってはいるが、ドイツ人自体には別に好悪はなく、どっちかというと、積極的にはつきあいたくない人たちであった。
一般的には厳格、真面目というイメージがあるが、歴史を少し知ると、「外面的には傲慢、内面的には案外こすっからい」という本質はわかっていたつもりではある。

一般的にドイツ人については、次のようなことが言われている。
①規律に厳格、規則を守るというより規則が好き。
 歩行者が信号を守らずに自動車にはねられた場合、日本では車側の過失が0になることはない。どんなに突発的で避けようが無くても、前方不注意とかいわれる。
ドイツでは、「それは規則に違反した歩行者が悪い」で終わりになる(らしい)。なかには、頼みもしないのに「おれが証言してやる」と言う人が結構わらわらとでてくるらしい。


②なぜか、偉そう。傲慢。
 ドイツ人のこの感じは、日本人だけが感じるだけでなく、他のヨーロッパ人もそう思っているようである。
「あの傲慢な感じはオーケストラの指揮者には向いている」といった人もいる。
  
確かに、テレビでみたドイツ人は、なぜか説教口調で上から目線で日本人をかたっていた。「この根拠のない傲慢さ」の裏には「我がドイツ人は優れている」という意識がある。よく劣等感の強い人は、こういう態度を取るが、ドイツ人の場合は、劣等感というより、普通に民族全体がそんな感じである。

他民族に対する優越意識は、白人全体に共通したものではあるが、特にドイツ人に、こういう優越意識が強くあるように感じる。確かに20世紀前後の科学史にドイツ人の功績は偉大である。しかしこの意識はホロコーストにつながる下地ともなります。また傲慢な感じは、優越意識だけでなく、性格的な頑固さからきているようにも思います。

③几帳面
  これはゴルフ2のボンネットを開けた時に感じたことである。エンジンルームには、エンジンオイルやラジエータなどオイルや水を入れるところにキャップがついている。そのキャップ類が閉めた状態の時、取っ手類が全部、横一線に並ぶようにできていた。
エンジンルームを眺めると
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  ↑こんな感じで、一目見て閉まっているかいないかわかりますね。
几帳面で合理的な考え方をする民族的な性格が感じられました。

ところがゴルフ4になると
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となり、ばらばらになりました。それぞれの部品も、ゴルフ2の時よりも、ヨーロッパ各国の部品を使用するようになり、そんなことをそろえるようなことは、できないし、しようとも思わなくなったのでしょう。世代が変わったのである。

④デザイン感覚はだめ、やぼったい。
 ドイツ人のファッションデザイナーっていましたっけ。彼らの作る自動車を見ても、そこに機能美はあっても、官能的なデザインはない。可憐なminiが、ドイツ人の手にかかるとああなっていきます。食事もあまり期待できなさそう。

漠然とそんなイメージのなか、ゴルフ2に乗って、ドイツも工業製品に関しては、たいしたものだなと思った。彼らの生み出す工業製品を見ていると、ドイツというか、欧米人と競争をするなら、よほど考えてやらないと勝てない、甘い相手ではない。

ところが、あの排ガス規制の問題である。

あの問題は、意図的な、大変悪質な行為である。確実に確信犯で、また組織ぐるみの犯行で、決して一部の技術者だけでできる問題ではない。そして、表沙汰になれば、企業イメージに決定的なダメージを与える事件である。

最初は「フォルクワーゲンは、そんなことやるのかあ」と正直、驚いたが、考えてみれば、「信頼性の高い製品」を作るメーカーが「道徳的に高い意識を持つメーカー」とは限りません。

「優れた作品を作る職人さん」と「人格」は、結びつきませんし、優れた人格を持つ職人さんが集まっても、それが会社という集団となると、社会的に正しい行動をとるかどうかは、また別問題ではありますね。

昔、ドイツは、第二次世界大戦の戦闘機の性能を、計画時の計算値を実測として出したり、機銃等をはずし、燃料を減らした状態での速度を最高速として公表することをやっている。ただ、これはドイツだけがやっていたことでもない。

また都合の悪いことは、黙る、もしくは他のことを取り出して、問題を拡散させようとするのは、これも、どこの民族でもやることではある。先に書いたように、歴史を見ても、ドイツは案外こすっからいことを平然とやっている。

というようなことを思い「ドイツ人とはいえ、悪いことはするわなあ」と納得しようとするのだが、しかし、あの事件には、なんともいえない違和感が残る。

どこに違和感というか異様さを感じるかというと、ばれてしまえば決定的に企業へのダメージになる悪質なこと、道徳的観点からも「ギョッ」とするようなことを、長年にわたり組織ぐるみで、平然と続けていたという事に対するものである。

たぶん、同じ事をやっても、フランス人やイタリア人なら、すぐにばれただろうし、イギリス人は、もっと巧妙に立ち回り、問題を小さいうちに消してしまっただろうと思う。

悪いこととわかりながら、その巧妙さ故になかなか他にわからず、自分で止めることもできず、結局、問題が大きくなって、明るみに出て阻止される、そしてそれを組織ぐるみ実行していくというのは、ドイツ人が持つ、一種の「危なさ」ではないだろうか。

ナチスの台頭については、ベルサイユ条約の過酷な処置から理解しようとするのが一般的である。しかし、ナチスの出現とユダヤ人虐殺に関しては、ドイツ民族自身に潜む要素も、大きく関係していると、あらためて今回のことで思った。


このようなことがおこる背景の一つは、ドイツの教育制度にあるのかもしれない。

 ドイツは小学校卒業程度の段階で、将来、大学まで行くのか、職業訓練校のようなところへ行くのかを決めるということを聞いたことがある。
その結果、職人さんになる子は、すぐにそればかり勉強していくことになる。そういう教育は、マイスターと呼ばれる、一芸に秀でた優れた職人を生み出す一方、社会に対する基本的教養に欠け、視野が狭く、また会社に入っても配置転換などもできにくい人材が育つように思う。
一方、社会はエリートが大衆を率い、指示し、コントロールすることが必要だと思う人材も生み出すだろう。 

こういう教育制度は、一種の頑固で傲慢な性格の形成につながり、また、指導者がつくる規則に黙って従う人材、ある種の誘導を是とすると共に、誘導にのりやすい社会の雰囲気を生み出す下地になっているように感じる。

しかし、この点に関しては、さらに文化、歴史など、もう少し分析してみたいところである。(未完)












  

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