2018年12月18日火曜日

釈迦は輪廻転生を否定したのか 混沌たる仏教世界

仏教について深く知りたい方は、違うサイトに博学な内容が山ほどありますので、そちらをお勧めします。
また図書館にも仏教関係は、後ずさりしたくなるほど本がありますので、そちらへ。
ここにあるのは、ただの感想です。

 

お釈迦様自身は、輪廻転生をどうとらえたのか。
これについては、三つ説があります。

①釈迦は、輪廻転生を信じていた。
②釈迦は、輪廻転生について、議論を禁じた。
③釈迦は、輪廻転生を否定している。


こういう根本的なことにも、いろんな説があるというのは、仏教らしいところですが・・。

まず③の否定説ですが、これはあり得ないと思います。

輪廻転生がない「解脱」は、ただの「不安や怒りのない安定した心境」「静謐な心」でしかありません。 
これでは、釈迦は「素晴らしいカウンセラー」か、せいぜい「偉大なる哲学者」になってしまいます。

釈迦の教えが「社会を生きるに必要な、健全なる心をつくる考え方」であるなら、あれだけ多くの人がそれまで信じていた教えから離れ、釈迦の教えに深く帰依していくことはなかったと思いますよ。

輪廻転生という考えは、お釈迦様以前の、大変古い時代に成立し、広まった概念です。(ウパニシャット哲学には、死んだら終わり、なんも残らんという考えも紹介されていますが、それがどれほどの広がりを持ったものか、私にはわかりかねます)

お釈迦さまは、当時、いわば常識のように浸透していた輪廻転生という考え方を、当然のように受け入れ、その上に立って理論構築を行ったと考えます。輪廻転生あっての解脱でしょう。


しかし、輪廻転生否定説は、仏教自体に内在している矛盾から発しているという一面があります。

例えば、「無我」という言葉が仏教では説かれます。釈迦自身が使ったといわれます。

その後、この概念は「無常・無我なんだから、輪廻転生する主体も無い、だから輪廻転生など無い」ということになりかねないので「無我ではあるが、輪廻転生はある。なにかが生まれ変わる。それは『識』である」という理論展開で何とか克服しています。これはもう大乗仏教の時代ですね。

そして、近代になると否定説が表に出てくるようになります。
これは、 霊魂とか、地獄・極楽という概念を嫌う学者が、仏教を哲学的な概念で理解しようとしたこと、そして「新仏教」が、輪廻転生を否定したことなどが原因でしょう。

新仏教は、インドの最下層出身の人が始めたと記憶していますが、カースト制と輪廻転生思想が結び付くインド社会の厄介さを思うと、輪廻転生を否定したくなる気持ちは、よくわかります。

仏教は、お釈迦様没後に、物凄く多くのことが付け加わり、それぞれの人が自己流に解釈し、広まっていったものです。そこらへんの時系列を整理しないまま、議論するので、何がなんやらさっぱりという宗教になっています。

また世の中には「考えること自体が好き」という人がいるもんで、深読みしすぎて、結局、思索の森の中で彷徨っているような人も、たくさんおられますね。



釈迦は、輪廻転生と無我について、特に矛盾を感じていた様子はありません。

原始仏教では「何々(例えば色)は、我(アートマン)では無い」と説かれます。 
これが無我と訳される元だと思いますが、「我では無い」であって「我は無い」とは言っていないことには注意するべきでしょう。

この文章をより正確に言うなら「色は、我(アートマン)には非ざる」でしょう。そのため無我ではなく非我と言うべきだという人もいますね。

また「我」は「アートマン」の訳ですが、これもよくないと思います。誤解を生みやすい。「アートマン」は「自己」と訳す方もおられますが、これもどうもおさまりが悪いです。アートマンはアートマンと言うしかない概念です。

 

訳文は原文の真意を伝えにくいので注意が必要です。

私がお習いした大学の哲学の先生は「原文をあたらなければ、本当の意味はわからない」と言われ、いつもドイツ語の資料を渡されましたが、さっぱりわからないので、日本語の訳文をいつも見ていました😊。
本当はお釈迦様の自筆の著作物でも残ってるといいんですが、文章どころか、お釈迦様が話されたと思われるマガダ語さえ滅んでしまっています。しかし、お釈迦様の手紙や文章って本当に残ってないんですかね。


「万物は流転する。すべて常なるものは無い。そしてこの世は苦に満ちている。生物は生きて生きて生きて、そして死んで死んで死んで、また生きて生きて生きて、そして死んで死んで死んで・・それを未来永劫繰り返す。
ああ、そこから解脱して、安心立命の境地に入りたい」  というのがお釈迦様の想われたことでしょう。

無常に変化する実相と、永遠に流転するアートマンは、釈迦の内部では、何の矛盾も無く成立する概念だったように思います。



②については、実際、お釈迦様は言った可能性はあると思います。

「インド人を黙らせ、日本人に発言させられる司会者は、有能な司会者である」というジョークがあります。インドの人って、議論に熱中すると、しゃべり止まないんでしょうね。そして、その思考には特有の「煩わしさ」があります。そこは、お釈迦様の時代も同じだったんじゃないでしょうかね。

同じ議論を、何日たっても、何年たっても、何十年たっても言い続けるインドの人たちを見て、「お前ら、もう止めろ。そんなことをやっていると、議論して一生を終わってしまうぞ。議論を止めて早く修行をしろ」とおっしゃりたかったんじゃないですか。

よく似た言葉に「釈迦は死後の世界の事は無記とした」という言い方もあります。孔子は、彼自身の合理的な考え方の流れで「死後の議論は無記」としていますが、お釈迦様の場合は、前記のような考えで無記とされたように思います
   

私は「お釈迦様は、輪廻転生は当然のこととして受け入れ、そこからの解脱を深く思索された」 そして「議論ばかりしている人たちに対しては、輪廻転生に関する議論は禁止された」ということだと思っています。  




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