2018年9月13日木曜日

死刑廃止論とキリスト教の関係について


死刑廃止論の根拠はよく言われているように

①死刑囚にも人権がある
②死刑は、残虐な刑罰である
③死刑は、犯罪抑止効果はない だからあえて死刑にする意味はない
④冤罪の場合、取り返しがつかない

というあたりが一般的である。


死刑廃止論は、1970年代には日本で主張されていたと思うが、当時、求刑、判決、出獄は7掛けの7掛けと言われていた。求刑懲役10年なら、判決は7年、仮出獄は5年というわけである。

当時の有期刑は最長20年だった。無期懲役はそれ以上だが、無期懲役であっても、最低15年ぐらいで社会に出てくる可能性があった。
死刑を無くそうという主張は結構だが、死刑を廃止すると、最高刑は、実質、懲役15年になってしまうという法体系に対する論議は、死刑廃止論者には全くなかった。

私は、そのため若い時から「死刑廃止論」ではなく「死刑廃止論者」に対して不信感があった。 

2000年代になってようやく、終身刑の導入を主張しているようだが、何かを廃止するというなら、最初から刑法全体のバランスを見すえて提案しないと、説得力がない。また終身刑なら、先にあげた死刑廃止の論拠をクリアするとも思えない。

結局、今でも「死刑廃止ありき」の理念だけが先行している感は、ぬぐえないのは残念である。


「何故、ヨーロッパは死刑廃止を始めたのか」という問いに対しては、「人権意識の高まりがある」というのが一般的な答である。

死刑廃止は、フランスとイギリスが、世界に先駆けて導入したと記憶している。そしてヨーロッパ各国に広がり、その動きは旧植民地にも波及している。
現在でも、キリスト教国が中心で、イスラム教国と仏教国、共産主義国は、ほとんど受け入れていないのも事実である。



死刑廃止論は、キリスト教の教義と関係があるのだろうか。

よく言われていることは次のような主張だろう。

「キリスト教では、自殺は禁忌である。命(魂)は、神から与えられたものである。それを人間の勝手な意志で神に返すことは、神の御心に反する。高山右近が自害を拒否したのは、教えに背くことができなかったからである」
「近年では、人権意識の発達に伴い、死刑も取り上げられるようになった。死刑も、人間が勝手に命を神に返す行為だからである。キリスト教徒には、死刑に対して神への恐れを感じ、抵抗があるのである」

死刑廃止論の根底に、キリスト教的価値観があるのは間違いないように見えるが、それだけではどうにも納得ができない部分がある。

自殺が神の教えに反するのは、わかる。同じ理由で死刑も禁忌だというが、それなら殺人も禁忌のはずである。キリスト教も「殺すなかれ」 である。ところが、ヨーロッパの歴史は、殺戮と虐殺の歴史でもある。

異教徒を殺すのは理解できる。彼らにとって、「キリスト教徒=人間」なので、異教徒は「人間ではないもの」となり、殺してもいいというか、人間ではないので「駆除する」という感覚になるのであろう。同じキリスト教徒でも宗派が違えば、考え方は同様だろう。
ところが、同じ宗派でも、虐殺、殺戮は止まない。政権が代われば、政敵は皆殺しという感じである。

フランス革命は、「人権宣言」「自由・平等の確立」「民衆の蜂起」という大変、良いイメージで語られるが、ちょっと調べてみると、何万人もが殺される、大変血なまぐさい、日本人の感覚では身の毛もよだつというか、ついていけない思いがする。

宗教上、自死、殺人、死刑は同列線上にあるはずだが、明らかに、取り上げ方に差がある。


私は、死刑廃止論とキリスト教はあまり関係性はないのではないかと思う。
宗教より、先に書いたヨーロッパの血で血を洗う歴史、政権が代われば、簡単に政敵になった人は処刑されるという歴史が関係しているのではないかと思う。


人は、自分がどういう立場になるか、仮想することによって、容易に意見は変わり、矛盾を感じない。

例えば、私の子供が脳死状態になって、医者から「脳死状態です。回復の望みはありません。心臓移植の提案を受け入れてください」と言われたら、「先生、そんなこと言わないで、最後の最後まで治療をお願いします。奇跡ということもあるじゃないですか」と言うでしょう。脳死による心臓移植、反対の立場に立つことになります。

反対に、子供の心臓が悪く、医者から「これはもう、心臓移植しか方法がありません」と言われれば、私は「先生、どうぞよろしくお願いします」と言うだろう。心臓移植、賛成の立場ですね。

この二つの立場は、私の中では何も矛盾せずに成立する。

なにが言いたいかというと、現在の日本でアンケートを取ると、8割前後、時期によっては9割近くが、死刑肯定・是認である。そして、日本人の大部分は、自分が「死刑」という処罰を受ける立場になることは、ありえないと考えている。そんなことは、全く念頭にもないという人が大半であろう。

ヨーロッパは、意識が違うのではないか。
政権が代わる、他国に侵略される等、世界情勢は常に変化する、そうなれば自分が「死刑」になるという可能性はゼロではないという感覚があるのではないかと思う。特に政治にかかわる人は、こういう意識から離れられないだろう。

死刑廃止論は、そういう恐怖感が根底にあり、その上に人権という衣をかぶせたものと考えたほうが理解しやすい。イギリスでもフランスでも死刑廃止への過程は、民意の盛り上がりというより、政治家主導という面が強いのも、そういう事情からだろう。

日本は、他国に侵略されたこともなく、政権が代わり、江戸幕府が明治政府になっても、目を覆うような大量虐殺は、無かった。むしろ、幕府の能臣は、明治新政府に登用されている。徳川慶喜も殺されることはなかった。他国ではありえないのではないか。

例外は、本土空襲による大量虐殺ですが、日本は、昔から自然災害が多いため、こういう災害はこだわっても仕方なく、心にしまって前を向くほうが大切だと考える傾向があります。空襲も災害の一種と、とらえてしまう面があるんですね。ある意味、アメリカは幸運だったんですよ。他の国なら、今でもこだわっていると思います。
日本人の、(こういう事件を政治的なカードとして使わないことをふくめ)良質な一面でもあり、悪い面でもありますね。

こういう歴史から、死刑肯定論が日本人では多いのだと思う。平和の裏返しということでしょう。

今後も、死刑廃止論は日本人の間では、広がらないだろうと感じます。日本では「人を呪わば穴二つ」というのが、昔からの常識になっていますが、この考えはまだ当分続くと思います。

またヨーロッパの死刑廃止論は、その歴史的経過や宗教から生み出されたものだが、まだ歴史が浅く、ローカル色がぬぐえない。今のところ追従する必要もないだろう、というのが私の見方です。

追記
何百人も自国民を殺したポルポトを経験したカンボディアは、死刑を廃止してますね。自国民大量虐殺は中国も同じですが、ここは廃止する様子は全くありません。中国人の死生観はちょっと興味があるところです。













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