大戦中の日本兵は、勇敢に戦った、と言う表現は正しくはない。戦前の日本人は「真面目」に戦ったのである。変な表現であるが、この表現が最も的確なのではないかと思う。
日々の暮らしに真面目に勤しみ、言われたことを従順に守っていこうとする日本人の一面が、そのまま戦場でも発揮されたのである。
結果、戦局の最後には、純粋な若者たちが、「神風」の名のもと、自ら命を投げ出すに至る。
周辺の大人の意向は、様々であったにせよ、親や兄弟、妻や子ども、日本の将来のことを思い、散っていった青年たちの心情は「崇高」としか言いようがない。
激情や偏執的な感情にかられての行動ではない。
彼らは大学教育を受け、戦局についても冷静に分析していた者が多い。理性的に考え、決断し、命を捧げたのである。その心情に思いを馳せる時、傷ましさとけなげさに胸が詰まる思いがするが、そういう若者を歴史の中で私たち日本人は持ち得たということを忘れてはならぬと思っている。
しかし、最後まで戦い抜く、そして自ら命を投げだすように見える行為をアメリカは、理解できなかった。彼らの歴史や周辺で、そのような行為をなす者はまずいなかったのである。
そのため彼らの経験の範囲中で、判断することになる。
彼らの知っている似た行為は、宗教的な情熱に駆られた時に、人は命を投げ出すということである。宗教指導者が死後の世界を示し、進んで命を投げ出すようにさせるというのは、洋の東西を問わずあったことである。日本でも、一向一揆の時に、それが見られる。宗教的な信念に裏付けされた行為の恐ろしさは、昨今のテロ事件を見てもわかる。
アメリカ人は、その図式の中で、日本人の行為を理解しようとした。
まず宗教指導者は、「天皇」である。指導者というより神そのものとして天皇をあがめ、それを盲目的に受け入れた日本人は、命を投げ出すことになんのためらいも無いのだろうと考えたのである。
そのため、アメリカ軍が日本に進駐して行ったことは、まず無知蒙昧な土人である日本人の目を覚まさせてやること、そのために天皇は神ではないと天皇自身に宣言させることであったわけである。
しかし、今の日本人も誤解しているのだが、戦前においても日本人は天皇を神であるなどととらえていたものは、ほとんどいなかった。戦局が煮詰まった大戦後半の小中学生は、そう思い込んだ者がいたようだが、大部分の大人は、「天皇陛下といっても、屁は、たれるよなあ」と、平気で言っていたのである。
※戦争中であっても、学校では普通に英語教育は進められており、また「七生報国」「悠久の大儀」「鬼畜米英」なと゛の言葉も、一部の若者は純粋に受け止めたが、大人達は一種のキャッチフレーズとして理解していたというのが本当のところである。
ただし、神ではないが「神聖な存在」と捉えた人は多かったと思う。「神」と「神聖な存在」の違いは、例えば、剣道を修行する人にとって、道場は「神聖な存在」であるが、別に「神様」ではない。神聖な存在とは、自分として大切にしておきたいというニュアンスの存在で、それを神そのものと思うこととは全く別である。
アメリカも部分的にだが誤解に気づいた面もあるのだが、未だに日本に対する捉え方には、歪みが残っていることに注意する必要がある。日本人の行為を「盲目的な」とか「狂信的な」とか「集団主義的な」という目で見やすいのである。
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