2011年6月1日水曜日

早期教育の問題点① 音楽と才能

将棋の米長プロがこういう意味のことを言っていた。
「才能があるというだけではどうしようもない。 ここに集まってくる子供たちは、全員才能があるのである。その上で、努力を重ねる人間が勝利をつかむのである。」

将棋と同様に、音楽の場合も才能のある子供が、同じように努力を重ねるが、それで勝利がつかめるかというとそうではない。最後の最後にまた才能の有無が問題となる。

優れた演奏家になるためには、二つの才能が必要になる。
それは技術面の才能と音楽の解釈の才能である。 
これは絵画などの世界でも、同様である。

ピアノでもヴァイオリンでも、小さい頃から習わせると、のみ込みが早く、指も良く回る子がいる。音感も良く、集中力もあり、教えたこと以上に伸びていくと感じる子がいる。いわば才能を感じさせる子供たちである。
コンクールに出ると上位の成績をおさめ、一部の子供達は国際的なコンクールで立派な成績をおさめることとなる。
この子達は、少なくとも技能面の才能はある子達である。

コンクールで優勝すると、日本のマスコミは大騒ぎであるが、冷静に言うと、プロとしてのスタートラインにつくことを世界的に認められたにすぎない。ここからが、演奏家としての始まりである。
 
演奏は、ただ間違いなく弾けばよいというものではない。また情熱をストレートにあらわし、鍵盤を叩けばよいという世界でもない。
曲をどう解釈し、ベートーベンはべートーベンらしく、モーツアルトはモーツアルトらしく弾きながら、独りよがりに陥らず、その演奏家独自の世界を築けるかどうかが問われる。今度は高い芸術性が演奏に求められるのである。

音楽をどう解釈し、弾いていくかは、研究と努力が必要である。しかし、どう研究しても乗り越えられない壁があるように思う。小澤征爾も努力したが、彼の振るベートーベンは立体感というか構成感がなく、つまらなかった。 

ここに音楽の解釈という芸術的な才能が必要になってくる。

研究に研究を重ねた上に、その人独自のセンスが問われていく。その人独自の感性、それが才能というものであろう。

コンクールに優勝するような子は、技術だけでなく、芸術性でも一種の燦めきを感じさせることが多い。しかし、そういう子供の多くは、よいセンスを持つ一流の演奏家を先生として習っているので、センスの良い弾き方をするように見えるのである。そのため、その時点で、その子自身が音楽の解釈に関して良いセンスを持っているかどうかは、あまり問題にならない。
しかし、世界的なコンテストにも入賞し、独り立ちし、先生から離れ、自分独自の解釈をし始めた時に、その有無が問題となる。そして多くの子供達が、その時点で伸び悩み、消えていく。
五嶋みどりさんも、圧倒的な技能面での優越があるので目立たないのだが、最近の演奏を聴いていると、独りよがりの演奏に陥っており、結局真の意味で、芸術的な感覚は、持ち合わせてなかったのではないかと思える。

技能面での才能と芸術的な感覚の両面が高い次元で具わっている子供は、まず希である。


音楽は、早期教育が大切と言われる。確かにそうなのだが、音楽を楽しむというのなら、何歳から始めても遅すぎるということはない。
そして親が過剰にのめり込む早期教育は、どうなのかなあと思う。早期教育をうけた子ども達の中に、「技術的な才能」と「芸術的な感覚」の両方を持つ子どもがいる確率は、ほとんど宝くじ的な確率でしかない。まず自分の子供には、そういうものが宿る可能性はないと思った方がよい。

多くの子ども達は、大人になる過程で、自分にはあると思っていた技術的な才能など、他の子も持っていること、そして自分の上をいく子は、山のようにいることを知ることになる。本当の意味での技術的な才能など無かったのである。しかし、その時点で気がついた子はまだ幸せであろう。

多くの子どもたちが、毎日のハードな練習の結果、なまじ技能は身についているため、今さら他の分野へのチャレンジもできず、ずるずると音楽の世界で生きていくことになってしまうのは、はたして幸せなのだろうか。他の分野での可能性はなかったのだろうか。
このような事は、音楽の世界だけではない。スポーツの世界も同様のことが見られる。


早期教育は、まずはその子の人生を豊かにしてくれるものとして習わせて、本当の意味での才能の燦めきがあり、本人も望むなら、本格的に習わせるという見極めを、大人(親や先生)がしてやることが大切だと思う。
そして、本当に尋常ではない才能の燦めきの見える子は、落ち着いて勉強できる静かな環境を設定してやりたいものである。小さい頃から回りで騒ぎすぎて、本人が変な自信を持ってしまい、最終的には人の意見を聞けず、独りよがりの演奏家として伸びなくなるというのは、よく見るパターンである。
ユーチューブで子どもの演奏をあげる人がいるが、やらないほうがいいのにと思う時が多い。

アマオケの本番の演奏会では、後方で弾いている人に、やたらにうまい人がいるものである。これは本番で助っ人として入ってもらうプロの人である。
そういう人を多く見てきたが、好きな音楽で生きていけるのはうらやましいなと思う反面、この人はひよっとしたら銀行員として生きていった方が、幸せだったのではないかとか、なにか運動の選手の方が良かったのではないかとか思う人が結構いる。

基本的にはよけいなお世話という話ではあるが、以上の話はそういう人を見ての正直な感想でもある。 



0 件のコメント:

コメントを投稿